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さて、最近のマイブーム綿矢りさ氏の芥川賞受賞作『蹴りたい背中』を、高校生のとき以来に、再読しました!


あらすじは記憶に残っていましたが、細部は全然覚えていなかったので、初読と同じような感覚で読めましたおねがい

やはり、芥川賞受賞の理由がよくわかる気がします。

まず、何より、文体と表現力。

彼女は、モノローグの語り口のうまさに定評がある人ですが、出だしからして、グッと惹きつけてきます。

「さびしさは鳴る。耳が痛くなるほど高く澄んだ鈴の音で鳴り響いて、胸を締めつけるから、せめて周りには聞こえないように、私はプリントを指で千切る。細長く、細長く。紙を裂く耳障りな音は、孤独の音を消してくれる」

これが、冒頭部分です。

聴覚に主眼を置いた語りだということがわかりますが、それにしても、さびしさは、鳴る、です。
この心理描写は、やはり天才的だといわざるを得ませんびっくり

聴覚に関する記述は、物理的な音を表現する際に使用するのが常識ですが、教室でひとり孤独な彼女(綿矢りさ=長谷川初実)は、心理的な音を表現する際にも使用したのです。

その心理的なさびしさの音をかき消すために、紙を千切る音を使用する。

ここでは、心理・さびしさ/物理・紙という聴覚の対応関係が見られると同時に、視覚的に、自分が教室で見ている世界の広さ(狭さ)を感じさせます。さらに、世界に触れている触覚についても、紙という物理的媒体を通して、伝わってきます。

孤独感を表現する上で、五感をうまく折り合わせた文章が冒頭に置かれることで、主人公ハツへの感情移入が、非常にスムーズな形で導かれるのです。

「さびしさは鳴る」という表現は、文学的にすぎる、という批評もあると思いますが、本作『蹴りたい背中』は、このフレーズなくして、その成立はないとすら、言いたくなります。

このあとも、主人公ハツの心理描写は、五感を活用した形、それもモノローグ(一人称)の形で、さまざまになされていきます。

内容紹介は、他でも色々書かれていますので、詳しくは書きませんが、「蹴る」ことの意味については、少しだけ述べておきたいと思います。

(背中を)「蹴る」という行為は、五感で言えば、「触覚」に関わるものですが、実は、五感のなかでは、もっとも原始的な感覚であるのが、重要ポイントだと思います。
見るとか、聞くとかの感覚よりも、「触れる」は、深い次元にあるため、進化的に見ても、より本能に直結する感覚だと考えられます。

その意味で、蹴る行為は、ハツから、にな川(というクラスメイト)への性的な欲動の現れだという一般的な解釈にも、頷けるところがありますが、わたしは、加えて、彼の背中に、(手ではなく)足で触れることで、自己と世界との接触を回復しようとしている、つまり孤独を解消しようとしているのだと、解釈したいと思います。

いま、手ではなく、とカッコで挿入しましたが、手というのは、人間的な意味合いが強いことに注意しておく必要があります。手の発達と道具の使用は、人類の文化や文明の発展につながったことが知られています。

その点、足というのは、前足、後ろ足というように、獣類の持つ身体器官であるわけです。犬や猫は、「手」を持たないのです。
本作が、『(手で)触りたい背中』ではなく、『蹴りたい背中』というタイトルであったことには、重大な意味が隠れている気がします。蹴るという暴力=欲動は、動物的な感覚に強く結びついています。
教室という「人間」社会の生きづらさのなか、蹴るという本能的行為をとおして、ある種の「動物」性を、高次元で回復することで、孤独を解消する、そんなハツの力強さを感じることができるのではないでしょうか。

さらに現代社会の視点から一言付け加えるなら、コロナ禍のいま、他者の身体に触れること、接触することの意味について再考する上で、意義のある作品でもあると思います。

副次的にですが、『蹴りたい背中』の今日的意義は、そんなところにもありそうだと感じました。