父が、頭を下げた。
「こんなはずじゃなかったんだ。」
そう言って、うな垂れていた。
夕月は、なんだかドラマを見ているよな錯覚に陥り、ぼんやりとそんな父の右手を見ていた。
皮膚にうっすらと血が滲んでいる。
「怪我してるの?」
夕月がそう聞くと、父は何の事だか分からないと言った顔をした。
「手、血が出てるから。」
夕月は立ち上がると、救急箱を手に、戻って来た。
「あいつらとちょっと揉めただけだ。大したことない。」
父はようやく、その傷に気付いたようで、小さく笑った。
夕月は、溜め息を吐くと、
「お父さんが今更どうあがいたって、状況は変わらないんだから。」
と言って、父の手に消毒液を垂らした。
父は何も言わず、痛みのせいなのか、顔を歪ませただけだった。
夕月は無言で絆創膏を貼ると、
「はい。出来た。」
と言って笑った。
「心配しないで。一年だけでしょ?平気よ。そのくらい。こう見えても、私、実は結構経験もあるし、そう言うの、そんなに深く考えないタイプだから。」
夕月が明るく振る舞えば振舞うほど、父は俯き、苦しそうな顔をした。
「お前、母さんのとこに行け。」
父が小さな声でそう呟いた。
「事情を説明すれば、分かってくれるだろう。」
父の言葉に、夕月は目を見開いた。
「嫌だ!それは絶対に嫌だからね!お母さんの所にはいかないよ。それに、私がいなかったら、お父さん、どうするの?そんな借金、返せないじゃない。」
夕月は母を恨んでいた。
朝陽を連れて、自分だけ置いて行った事を。
生活能力のない父親に自分を託した事を。
捨てられたんだと思っていた。
でも、殻に閉じこもりそうな夕月に、父は優しかった。
離婚する前より、ずっと優しかった。
お金はなかったけれど、ギャンブル好きも相変わらずだったけれど。
仕事もきちんとしていたし、生活費には手を付けないでくれていた。
それに何より、
「ごめんな。夕月も母さんの所に行きたかったよな。でも、お前だけは、手放したくなかったんだよ。」
と、言ってくれた事が、嬉しかった。
必要とされているのだと、実感出来た。
しかし、幸せは長く続かないものだ。
父がギャンブルで大きな借金を作ってしまった。
かつて、ない程の金額だ。
何故、そんな事に手を出したのか分からないが、とても払える額ではない。
父は何とかしようと思い、隠していたようだけれど、夕月が知るまでに、そう時間は掛からなかった。
借金の相手はまともな人間じゃなかったのだ。
「一年、お嬢さんに坊ちゃんの相手をしていただければ、借金はチャラにさせて貰いますよ。」
あの男はそう言った。
笑顔がやけに穏やかに見えて、逆にそれが不気味だった。
「もし、承諾頂けないのでしたら、お父さんに払ってもらうしかないでうね。まともな暮らしはもう、出来ないと思いますが。」
立派な脅迫だった。
警察に行こうと思ったけれど、それを見透かしたように男は続けた。
「警察なんて無駄ですよ。うちの組は執念深い事で有名なのでね。それこそ、一生まともになんて暮せませんね。」
男はもう笑っていなかった。
「お父さんが命削るか、お嬢さんが魂売るか、どっちにするかって事ですね。まあ、私は経験上、後者をお勧めしますけれど。」
夕月は何も言わなかった。
呼吸が苦しくて、膝が震えるのを、何とか歯を食いしばって耐えた。
「明後日、また来ます。」
男はそう言って帰って行った。
先に口を開いたのは夕月だった。
「何で借金なんてしたの?」
声が震えたのは、怒りのせいだったのか、恐怖のせいだったのか、分からない。
「お父さんの馬鹿!」
夕月はそう呟くと、部屋を飛び出した。
夕月の前にはいつも二つの道がある。
でも、どちらもゴールでは不吉な女神が微笑んでいる。
それでもどちらか選ばなくてはならない。
それが、生きる事だからだ。
