オレンジ
<陽の落ちる部屋>
夕焼け色の空。
雲が深い赤の中に溶けて行く。
少女は走っていた。
まるで、迫り来る夜の闇から逃げるかのように、一心不乱に走っていた。
その闇に捕らえられてしまったら、きっともう戻れない。
きっともう笑えない。
それを知っていたから、全力で走った。
16年間の人生の中で、一番走った。
呼吸が苦しくなればなる程に、過去の記憶が呼び覚まされる。
骨ばった手の甲とか、小さな背中とか、目の端に浮かんだ皺とか。
どうして、悲しい現実を前にすると、人は幸せな思い出ばかりが甦るのだろう。
少女は走るのを止めた。
逃げる事は出来ない、そう告げる声が聞こえた気がしたのだ。
見捨てる事は出来ない。
本当は、初めから分かっていた。
眼鏡を掛けた教師が、小気味良い音を響かせながら、黒板にチョークを走らせる。
数字とアルファベットの羅列を次々と生み出す彼の手元を追いながら、彼方は溜め息を吐いた。
「はい。それじゃ、今日はここまでにします。」
教師が振り向きざまにそう言うと、生徒たちはノートを取る手を休めた。
「今日の所は大事だから、よく復習しておくように。分からなかったら、質問にでも来て下さい。」
教師がチョークを置くと同時に、
「礼。」
の声が掛かり、皆軽く頭を下げる。
彼方も例外ではなかったが、視界の端で、教師が自分を見ている事に気付いていた。
教師の名前は、佐伯と言った。
今年で26歳になる、若い数学教師だ。
細身でスラリと長身で、あっさりとした顔立ちの彼は、笑うと細くなる目が可愛くて、生徒から人気があった。
中性的な男は、まだ女になっていない女子の警戒心を解きほぐすのだろう。
佐伯に本気で告白する者すらいるのだから。
都内有数の進学校で、それは結構な問題になった。
娘が学業に専念出来なかったら困ると、以前は彼の解任を要求する親すらいたようだ。
しかし、現実問題、彼は授業の教え方がとても上手だった。
着実に成績の伸びていく我が子を前に、「解任しろ」とは言えなくなってしまったのだろう。
今では佐伯は、多くの保護者達からも信頼されている。
完璧な、聖職者。
しかし、そんなものは存在しない。
清いものには醜い顔があるものだ。
彼方はそれを、彼と出会って直ぐに、実感した。
新稲彼方は、入学当初より、ある意味、有名だった。
何故なら、彼はこの学校の理事長と同じ名字だったからだ。
新稲なんて、早々ある名字ではない。
自己紹介をすると、必ず、
「もしかして、理事長と関係ある?」
と聞かれる。
彼方は別段、それが嫌なわけではなかった。
父と息子の関係である事は、事実なのだから。
生徒の興味とか、好奇の対象になる事は、害のあることではなかった。
しかし、どちらかと言えば、
「理事長の息子さん。」
として、自分を扱う教師の方が苦手だった。
どこか、腰の引けた態度で、愛想笑いをされると、馬鹿にされているような気がするのだ。
そんな中、佐伯だけは彼に対して、一度も特別扱いをしなかった。
授業に遅刻をすれば怒るし、問題が解ければ褒める。
当たり前の事を、当たり前の顔でしてくれた。
だから、彼に対しては、ずっと、好印象を抱いていた。
彼の事を、良く知るまでは。
「放課後、図書室で待ってる。」
教室を出る時、すれ違いざまに佐伯が囁いた。
ドアの近くに立っていた彼方は、無表情のまま、何も聞こえないふりをした。
図書館は、放課後になると、木目調の教室に西日が差して、オレンジ色に染まる。
彼方はこの空間が好きだった。
音のない、誰も居ない部屋が静かに色付く。
それは暖かな毛布のように優しく包み込み、夜の世界へと彼を導く。
「待った?」
ぼんやりと窓の外を眺めていた彼方の横に、いつの間にか佐伯が立っていた。
彼のシャツもうっすらと夕日の色に染まっていた。
「いいえ、今来たところです。」
彼方はそう答えると、佐伯の瞳に視線を合わせた。
「日が短くなったな。」
佐伯はそう言うと、彼方の髪に指を絡ませた。
窓の近く、学校、鍵のない部屋。
もっと、確実に人目に付かない場所だってあるはずなのに、彼はいつもここを指定する。
「彼方。」
佐伯の声が男になる。
教師ではなく、欲深い、人間の声に。
彼方は何も言わずに、ただ、彼を見つめていた。
唇が重なり、佐伯の匂いに包まれる。
男の唇は、意外と柔らかく、そして湿っぽい。
佐伯はいつもゆっくりと、彼方の唇を味わう。
舌を舐め、彼の口の中をゆっくりと動き回る。
そして、その唇が、彼の首筋に移動する頃、部屋はもうオレンジ色ではなくなっていた。
彼の暖かな毛布は、夜の女王に剥ぎ取られたのだ。