シュメールの旅から④ | 竹内文書の世界を旅する三和導代のブログ

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三和 導代 です。

 

昨日はサダムフセイン大統領のバビロンの宮殿のお話を書きました。バビロンはバビロン第一王朝の誕生によって「バビロニア」の中心地として繁栄した都市で紀元前3000年には既に人がここで住んでいて、メソポタミア文明でも最大の集落の一つでした。ハンムラビ法典で有名なハンムラビ王が築いた広大な王国が築かれ、ネブカドネザル2世の時代に建は空中庭園や、16条菊花門がデザインされたイシュタール門などが建設されました。

 

サダムフセインの時代にイシュタール門がバビロ復元復元されましたが、オリジナルのはドイツのペルガモン博物館で再現されています。サダムフセインはバビロンだけで亡く数多くの遺跡の修復作業に熱心であったことはあまり知られていないようですが、イラク各地に残されています。

 

彼の宮殿は国内に数多く残っていますが、その一つがこのバビロンにあります。テラスからはユーフラテル川、また町の眺望が一番美しい場所に宮殿は建設されて、現在も立派な建造物として残っています。ここバビロンの宮殿は一般公開はされていませんが、訪問した日は国会議員の選挙前で、大統領を初めとする要人がバビロンで会議が開催される日でした。そのためサダムフセインの宮殿の警護人も一人を残してそちらの警備にあたっていたので、一人の警備人しかいなかったのです。

 

親切にも私たちが中に入りたいことを察して、後10分で皆がもどってくるので急いで中に入ってのぞいたら良いといってくレたのです。」制限時間は10分です。半分走りながら、広大な数々の部屋をのぞくことができたのです。その部屋の一室は素晴らしいレバノン杉?のような天井の木材がしつらえてありました。そしてその左右にデザインされていたのは16条菊紋紋でした。とにかくシャッターを押し続け、外に出てから落ち着いて撮影した映像を確認しました。間違いなく16条菊花紋でした。

 

サダムフセインの先祖代々の紋章はなぜカモミールだったのでしょうか。シュメール人はいまだにどこからやって来たのかはわかっていません。かれらの話していたシュメール語はセム語とは異なった言語でルーツがわかっていません。後のアッカド語とも全くルーツは異なります。しかしアッカド語は話し言葉でしたので、文字はこのシュメール語から借り受けて使用していました。

 

このシュメール文明の中心都市は現在のイラン領となっている、イラクとイランの国境近くのスーサという町でした。竹内文書の中には古代のスメラミコトが日本から巡行し、この地に文明を伝えた記録が残っています。シュメーム文明は日本から伝わった文明だったのです。真偽は別としてロマンアルお話だとは思いませんか。