竹内文書の世界を旅する三和導代のブログ

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竹内文書の研究家・高坂和導の遺志を継ぎ、三和導代が古代スメラミコトの足跡をたどり、世界を旅するブログ

三和 導代 です。

 

昨年より今年にかけて主に新潟県で発掘された数多くの火焔型土器を見てきました。今週5月22日(土)に北浦和で開催されますセミナーでも触れますが、運ぶことになったのです。

 

昭和56年8月8日のセレモニーの記録が高坂和導著「竹内文書でわかった太古の地球共通文化は縄文JAPANだった」(ヒカルランド刊)の209ページに掲載されていますが、遺跡での神祭り、子供たちと手をつないでサークルをつくりUFOへの呼びかけ、火おこし、火焔型土器に水を張り火にかけるという儀式の写真が出ています。儀式では約25分で土器の水は沸騰し、水蒸気が上がったそうです。するとそれまで雲一つなかった青空に立派な龍雲が現れ、青空にもかかわらず霧雨のような光輝く雨が降り出したそうです。つまり火焔型土器は雨乞いの道具でもあったのではないかと高坂和導は著書の中で書いています。

 

この模様は当時の新潟に日報にも東京から子供たちのUFOグループが現地の子供たちと一緒に古代神を祀り出会うという儀式が行われたことが報じられました。この地は新潟市西蒲区巻町の角田山でした。竹内文書の中には上古18代の時代にはこの地が政庁があった時代のことが記録として残っています。その痕跡が今にでも残っているのです。この近くの日本海海底からも縄文土器も発掘されています。また多くの縄文時代の遺跡も弥彦山や角田山近辺では発掘されています。

 

その他、天空浮船としか思えない船地蔵をお祭りしている新潟市西蒲区の弘法大師越後二十一ヵ所霊場の寺院・青龍寺でも多くの縄文時代の遺物の40数年前の写真等が最近も数多く、我が家から見つけることができました。去年10月に訪れた際に、この船地蔵を実際に嫁がれて間もない時代に山から背負って下ろされた現在のご住職の御夫人からも突然の訪問にもかかわらず直接お話しを伺うことができました。この船地蔵は青龍寺の裏の山にある奥の院にずっとあったものを御夫人が50年以上前に移動されたのです。

 

そんな思いをかけていました所、またまた次々と新たに資料が出てくる毎日です。当時のこのあたりの山々の地図を見ますと、日高見の山という名前も書かれています。そして角田山にあった神殿跡らしき石組みの写真もでてきました。この地は既に柿の木畑が造営されて姿を消していますが、今でも古代より山の神として祀られています。天空浮船で移動していた時代のお話です。

 

そして御陵が青森県の恐山にあるという記録も大変興味深いですね。