シュメールの旅から① | 竹内文書の世界を旅する三和導代のブログ

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竹内文書の研究家・高坂和導の遺志を継ぎ、三和導代が古代スメラミコトの足跡をたどり、世界を旅するブログ

三和 導代 です。

 

10月25日に28年ぶりのイラクから戻り、3週間が経ちました。その間にセミナーを1回、今月末にも1回、12月に1回、1月にも開催予定です。1月はサハラ砂漠のチャドへの旅に先だって、私はいつも通りの生活に戻っていますが、頭の中はいつも竹内文書にでてくるスメラミコトのように世界中を天空浮舟で旅をしています。

 

最初のシュメールの訪問は1997年9月でした。今は亡き高坂和導の要望から私が企画した旅でした。当時はまだサダム・フセインの時代でしたが、アメリカからの制裁が厳しく医療品はなく、物資も不足していました。食事も毎日チキンとひとかけらのキュウリとトマトというメニューが続きました。国民が疲弊していました。私はバグダットのホテルに滞在していましたが、入り口には踏み絵のごとくブッシュパパの顔がタイル張り?になり、踏まないと中に入れなかったことが私の記憶の中に鮮明に残っています。

 

当時は壁に耳あり障子に目あり、誰が聞いているかわからないのでフセインの話題は公的な場所では話さないでほしいという現地ガイドの要望もあり、私たちは「フーちゃん」という名前で日本語で会話をしていました。(笑)

 

当時はバグダッドに入る航空機では入国できず、陸路で隣国のイラクから入国しました。日本からは当時はイラン航空のテヘラン行きの直行便が飛んでいましたので、テヘラン、そして国内線でケルマンシャーまで飛んで、車で国境まで行きました。

 

当時はエイズの問題があって、国境ではエイズ検査を入国時に実施するという誠におかしなルールがありました。出発前からそれはわかっていましたので、イラク側が提供する注射器は信用はありませんので私は使い捨ての注射器を購入していきました。そしてそこで血液を採られました。しかしどのようのエイズ検査をしたのかは未だに不明ですが、検査結果も伝えられることもなく国境を通過することができました。今考えると、単に血液が欲しかったのかはわかりませんが、以前からおかしな制度があったのは間違いありません。

 

今では国際線が毎日飛んでいます。日本からですとカタール航空やターキッシュエアラインズです。ビザは事前にE-VISAを取得スル必要があります。空港での取得は不可能です。そしてこの国は観光ビザはありませんので、バックパッカーや個人での旅行は困難です。留学、ビジネス、親戚訪問などは可能ですが、様々な情報を入力しなければいけません。また写真の規定も厳しく、また政治的な問題がありますので国籍によって取得ができない場合もあります。私の頭はパンクしました。とにかくVISAの取得が一番の問題です。 (つづく)