三和導代です。
かねてから検討されていました北海道・北東北の縄文遺跡群が昨日、正式にユネスコの世界遺産となりました。青森県を中心に秋田県、岩手県、北海道南部は、日本列島の中でも縄文遺跡が濃密に分布しており保存状態が数多くの遺跡が残されています。
もちろん日本にはその他の地域でも数多くの縄文遺跡が発掘されています。例えば来週行きます長野県にも素晴らしい縄文土器や土偶があります。心浮き浮きの旅となりそうです。
青森県は日本列島の最北端の地にある辺境地域でした。特に先週に旅をしました下北半島は竹内文書にもありますが、上古大8代の時代に新潟が政治の中心地であった頃、大斗能地天皇が臨幸されたのが大奏浜とあります。現在のむつ市の大湊港だと思います。大湊港は、陸奥湾に面し下北半島中央部に位置する天然の良港、藩政時代には南部藩の交易品移入港として栄え、明治35年帝国軍水雷団の設置依頼軍港としても利用され、現在は海上自衛隊大湊地方総監部が置かれ国防上の重要な基地ともなっています。
宿泊しましたむつ市の丘の上にあるむつグランドホテルからの夜景は非常に美しく、敷地も広く、敷地内ある温泉は斗南温泉美人の湯として地元の人も利用できるようになっています。斗南温泉の斗南とは、斗南藩から来ています。斗南藩は、元々は会津藩でした。戊辰戦争後に敗れ会津藩主松平容保が、戊辰戦争で新政府軍に徹底抗戦したため、1868年所領を没収されて禁錮に処せられました。翌年赦免されて家名再興が許され、嗣子容大が立藩が許された地でした。それはまさしく辺境の地であったからです。南藩の表高は3万石、内高は3万5000石でしたが、藩領の多くは火山灰地質の厳寒不毛の地でしたので、実際の税収である収納高(現石)は7380石に過ぎなかったと記録されています。
このような本州の青森県の縄文遺跡が世界遺産となったことは画期的なことだと私は思います。私たちはこれまで縄文時代が弥生時代以前の文明が発達していないかの如く私たちは教科書で教えられ育ってきたのですから。日本のお米も弥生時代に大陸からもたらされたという間違った知識が今でも一般化していますが、縄文時代には既に米つくりはあったのです。現在の歴史で正しいものはないかと思います。時の勢力により書き換えられているからです。現在の文明よりはるかに精神的にも科学的にもずっと進化していた時代があるのです。
先週の旅のメインでした下北半島の恐山では晴天に恵まれ、全くおどろおどろしい恐山の印象は全くなく、恐山の宇曽利山湖はまるで沖縄の海のような紺碧の美しい湖水で穏やかな光景でした。湖をとり巻く白砂の浜は極楽になぞられているようですが、まさに極楽そのものでした。死は怖くはない、新たなる人生の旅路の始まりです。古い肉体を脱ぎ捨てて、魂は肉体を出て、旅の始まりにふさわしい穏やかな舞台です。
しかしなぜか人間は地獄の世界も想定するのです。宇曽利山湖周辺の火山ガスの噴出する硫黄臭い岩肌一帯は地獄に、そして湖をとりまく白砂の浜は極楽になぞられえます。つくられた宗教観念を私たちは植え付けられているのです。
恐山はイタコの口寄せは今でも続いています。現に私が行った際にもイタコを通して亡くなっている方とお話しをしている女性、そして順番待ちする人々の姿がありました。そんな私も高坂和導が亡くなっってから1年後くらいに恐山に一人で旅をしました。その時の恐山の印象は全く異なりました。それは天候もありますが、私の想念の違いであったかと思います。悲しみに満ちた人がこの地を訪れれば、それは悲しい想念に満ち溢れるのです。意気揚々とした人々が行けば、同じ場所や光景でも異なった印象を受けるはずです。
私は今回のイタコの口寄せはしませんでした。以前は高坂和導を呼んでもらった記憶があります。内容は全く覚えていませんが、高坂和導がイタコを通じて語るのですが、今一つピンときませんでした。そのため内容は全く覚えていません。イタコもレベル、そしてどこにつながっているか等の条件は異なりますので、一概には評価をするのは間違いかと思います。しかし、青森の人々にとりましたはイタコ文化はつい最近まで一般の生活にも取り入れられたものであったことを私はかつて高坂和導の本家を訪れた際に聞かされていました。根強い文化があるのです。ですから、一概にバカにすることはできない重要な伝統文化なのです。