一通の喪中挨拶状から知らされる驚くべき真実 | 竹内文書の世界を旅する三和導代のブログ

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竹内文書の研究家・高坂和導の遺志を継ぎ、三和導代が古代スメラミコトの足跡をたどり、世界を旅するブログ

三和 導代 です。

 

高坂和導が突然他界したのは2002年10月17日のことでした。それまで彼のお付き合いの人々はほとんど交流がありませんでした。ですから他界した際には親族以外はほとんど連絡することはなく、彼を知る人々が伝言ゲームのように彼の死が伝えられました。

 

12月の初旬にさすがの私もその年のお正月に彼宛に来ていました年賀状を見ながら、ただ機械的に喪中はがきを出したことを覚えています。初めて見る名前の方々も多い中、とりあえず喪中はがきを出しました。およそ200枚位書いたのでしょうか。当時はまだ年賀状のやり取りは今以上に普通に行われていた時代でしたので。

 

そして最初にお電話をいただきましたのが、非常に穏やかな気品のある女性の方でした。大変失礼ながら私はその方のお名前も聞いたことがなかったので、その方と高坂はどのような関係であったかを私の方が質問させていただきました。そのお名前は高畠孝江さんでした。高坂宛の年賀状の肩書きには東京の築地にあります天神人祖一神宮の副管長と書かれていました。天神人祖一神宮という神社であったのか、全く知らなかったのです。

 

いただいたお電話で失礼ながら、根掘り葉掘り私は高畠孝江様より高坂とはどのような関係であったかを質問さえていただき、私の全く知りえない世界で高坂が活動をしていたことを知ったのです。ご存知のように高坂和導は竹内文書を長年研究していました。茨城県の皇祖皇太神宮に残る文献です。

 

しかし私は天神人祖一神宮という、竹内巨麿さんの末息子(4男)でいらした立武氏が養子に出、その家が高畠家であったこと、立武氏も数年前に他界されていること、生前二人は富山や立山などの現地調査も一緒にしていたことなどです。私の全く知らない世界でした。もっとも私は高坂が元気な頃は一切、彼の研究には携わっていませんでしたので。高坂が亡くなる2年前には竹内巨麿さんのご長男の皇祖皇太神宮の義宮氏も他界されていました。つまり皇祖皇太神宮も天神人祖一神宮も代替わりをして竹内巨麿さんのお孫さんの代となっていたのです。

 

その後、築地の天神人祖一神宮を訪ずれ、更に詳しいお話を高畠孝江さんよりお話を聞かせていただきました。私の本当に知らない世界でした。残念ながら既に皇祖皇太神宮と天神人祖一神宮の間では断絶状態でした。翌年の新年の月並祭に参加させていただき、現管長にもお目にかりました。そして何と、そこで私の現在の竹内文書の唯一の先生と呼ばれる金子光男先生と出会うことになったのです。金子先生は前管長の高畠立武氏に仕えた方でした。

 

その場で、金子先生は副管長の高畠孝江さんの許可を得て、その時お持ちでしたご神体の天空浮船の設計図を私に見せてくださいました。これは生前、高坂がどうしても見たくて熱望していた設計図だそうです。しかしそれを高坂は見ることはなかったとのこと。現在のご神体はオリジナルではなく、設計図をもとに復元したレプリカです。この設計図を元に現在のご神体は金子先生の手によって再現されたものなのです。高坂和導が著書で使っている写真はこの天神人祖一神宮にある金子先生作であることも初めて知ることになったのです。

 

あれから18年の年月が経過しました。今日、18年ぶりに病床の高畠孝枝さんにお会いすることとなりました。気品あふれる表情はお年を召されても全く変わっておられませんでした。そしてあるお約束をしてその場を失礼いたしました。また元気なお姿を拝見し、お話しを伺いたいものです。