三和 導代 です。
エチオピアは約3000年以上にわたり独立を維持していた、アフリカ唯一の独立国 かってはアビシニアと呼ばれていた国です。1974年に軍事革命により帝政が廃止され,社会主義政権となりました。その後1995年第1回国会選挙が行われメレス首相率いる新政権発足,連邦民主共和国となりました。最後の皇帝の名前はハイレ・セラシエ1世です。覚えている方もいらっしゃるのではないでしょうか。
ハイレ・シラセ1世は1956年に戦後初めて来日された国家元首でした。大阪の万国博覧会も来日されました。そして1974年のクーデターにより皇帝の座の退位、暗殺されました。その後、1992年に旧宮殿敷地内から遺体が発見され、現在はアディスアベバにある聖三位一体大聖堂の墓地に埋葬され、聖堂内には大きなハイレ・セラシエ1世の棺が安置されています。時代は移り変わり、社会主義の時代にピリオドを打ち、現在は共和国となりました。
2018年からアビィ首相が国の元首となり、昨年、エリトリアとの国交回復を成功された功績によりノーベル平和賞に輝きました。しかし昨今の報道によりますと、アビィ首相が率いる政府軍が、反政府軍であるエチオピア人民革命民主戦線(EPRDF)との紛争を開始し、北部のティグライ州のメケレでは一般市民を初目とする被害者が多数で、隣国であるスーダンへ避難しているとのことです。現在はメディアも入れずネットも使用不可能となっており、詳細がわからない状況が続いています。私の知人にも連絡をとっていますが、音信普通のままです。
エチオピアは3000年以上前にシバの女王がイスラエルのソロモン王の元に謁見、その際にシバの女王が身ごもり、その子供のメネリク1世がエチオピア帝国の初代の王となったという伝説が語り継がれています。ハイレ・シラシエ1世もこのメネリク1世の末裔であると自他共に言われていましたが、最後の皇帝となり帝国が終息し、社会主義そして共和制となったエチオピアです。
さらに伝説によりますと、メクネス1世は成人後、父であるイスラエルのソロモン王に謁見、帰国時にはエルサレムから何と十戒を納めた聖櫃をエチオピアに持って帰ってしまったのです。失われたアークです。それは現在、ティグラィ州の古都アクスムの聖マリアム教会の地下に隠されていると言われています。その真相を知っているのはこの教会の大司祭のみで、決して他言してはいけないそうです。
エチオピアは非常にユダヤ教と似たエチオピア教会つまり原始キリスト教徒が多く住んでいます。ティグラィ州という場所はそのような古代よりの歴史が詰まっている場所なのです。エチオピア教会の至聖所に置かれている一番聖なるタボットは、実は十戒石のレプリカなのです。普段は司祭以外は目にすることはできませんが、1年に1度のティムカット祭だけこのタボットが外に出され町の中をパレードし盛大なお祭りとなります。
アディスアベバのハイレ・セラシエ1世の住む宮殿はこれまでは一般には公開されず厳重に守られてきましたが、昨年の10月にこの宮殿はユニオン・パークとしてきれいに整備され一般の人々にも公開されるようになりました。広い敷地内に美しいお花も植えられ、宮殿内部は博物館になっています。当時のハイレ・セラシエ1世の玉座が再現されています。実は私は昨年の公開され、その数日後にここを訪れるチャンスに恵まれ、エチオピアの歴史のソロモン王の時代から現代のエチオピアへの変遷をじっくりと見ることができました。エチオピアの帝政時代が現代となり新たに見直される時代となった印象を強く受けました。
そんな中での今回の政府軍と元勢力のあったティグレイ族の反政府勢力軍の紛争です。80以上の民族が住んでいることが起因しているのは明白です。長年政権を握っていた3番目に人口の多いティグラィ族の指導者から、国民の3分の1を占める多数派のオロモ族であるアビィ首相が就任した結果、またまた引き起こされた根深い勢力争いです。アビィ首相は国連などの外部の意見は内政干渉として退け、紛争を続けています。紛争地域のメケレは標高2000m以上ある高現地ですので、この12月はとても寒いのです。隣国スーダンに避難していると報道されていますが、一般市民を巻き込んだ紛争が一刻も早く終息することを私は願ってやみません。