三和 導代 です。
今年の冬至は12月22日、この日は葛城古道と山野辺の道の大神神社、山の神祭祀遺跡、渋谷向山古墳でした。この日は午後3時頃まで暖かで何とか雨ら降らないでくれましたが、さすがに天気予報通り、午後に訪れた大神神社の博物館を出たところから小ぶりの雨が降り出しました。
まずは葛城古道に興味を持った理由は司馬遼太郎氏の「街道をゆく」の中で、葛城山麓には天皇家より古い葛城王朝が存在していたという件(くだり)からで、確かに第15代の応神天皇より第20代の雄略天皇までの葛城家の姫君が天皇家に嫁いでいる事実があるのです。どちから古いを証明することはできませんが、当時この葛城家大きな力を持っていたことは間違いありません。
この金剛山,生駒山が続くの奈良の奥地は今でも昔ながらの瓦屋根の立派な家々が軒を連ね、古代のヤマトを今にまでも伝える静かな地です。私が京都を敬遠し奈良の奥深くを好み旅するのは、この静けさと古代のヤマトににタイムスリップすることができるからです。笛吹神社から葛城坐一言主神社、そして高鴨神社までの葛城市から御所市までのルートは古代から景観が変わっていないのではないかと思うほどです。高鴨神社のあたりは標高も高く、大和三山を始めとした眺望を楽しめる場所でもあります。そう昔ながらのヤマトを。
そして午後は恒例の三輪山に向かいました。今年は3度目でしょうか。拝殿をお参りすることはありませんが、いつも天皇社(崇神天皇)と山の神祭祀場跡にはご挨拶に行きます。山の神祭祀場は三輪山の西麓の傾斜地で大正7年に地元の人々の開墾によって巨石の下から石製、土製模造品の遺物が発見され、ここが三輪山を祀る祭祀場であり、磐座祭祀が行われていたことを証明するものでした。拝殿は後から私たちが拝む場所として建てられたのでるから、ここが重要な場所ではないのです。
さてここのヤマトの地は崇神天皇の時代は本来の日本と大陸や半島から渡ってきた人々が混在する大変な時代でありました。つまり日本の変換期であったと言えるかもしれません。その時代に生き抜いた人々は大変な時代を送ったことでしょう。私もこの時代にこの地にいたのかもしれません。これだけ気になって気になって仕方ない地であり、私のこの三和もこの三輪山にちなんでつけましたので。
今回は前記しましたが、大神神社の博物館を出たところで小雨が降ってきました。それでも山野辺の道を進む予定でしたが、何と何度も来ているにも関わらず、途中で違う道に行ってしまいました。当初予定のルートである檜原神社への道から逸れてしまったのです。雨は強くなり、普通でしたらここで断念するのですが、こんな時は意味があって間違った道に入ったということはこれまでの私の経験で学んできましたので、ひたすら雨の中を進みました。間違うことがないと思っていましたので地図もガイドブックも用意はありません。自然に任せて歩きました。
実はこれまで崇神天皇陵と言われるとことには何度も行っているのです、どうもしっくりこない、つまりこれは本当に崇神天皇陵かなという疑問がありました。しかし、宮内庁がそのように定めていますが、誰も発掘することは許されていませんので、確かめようがありません。
そこで今回この地を訪れる前にインターネットで調べたところ、景行天皇陵と言われている渋谷向山古墳が昔から王塚と言われ、ここが崇神天皇陵と地元の人に言われているという記事を読みました。ええ、もちろんこの古墳もよく知っています。ここのエネルギーは相当強いのかもしれまえんが、10年ほど前に行って撮影した際には光る剣が写真に写っていたことを思い出したのです。
さて話は戻ります。今回は道に迷い歩いて歩いて1時間雨の中をひたすら明日来ました。そしてたどり着いた場所は何と、渋谷向山古墳であったのです。もう日が暮れ、写真もままならぬ時間となっていましたが、久々の参りましたこの御陵に、ご挨拶させていただきました。お名前が違っていたら本当に失礼なことので、「こちらにおられますお方」と申し上げて。。。。。