高坂和導の恩師・米村喜男衛先生 | 竹内文書の世界を旅する三和導代のブログ

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三和 導代 です。

 

今日は夏季アイヌ文化セミナー4日目で前記が終了しました。受講されている方はリタイア後の男性が半分くらいを占めている様子です。お若い学生さんの姿は見当たりません。元教員、語学の研究者等のアイヌに興味をも持たれる方はとても個性的な方々が多いようです。

 

4日間、8クラスの中で、2クラスはアイヌの方の実際にこれまで歩んでこられてアイヌとしても人生、その他6クラスはアイヌを研究する学者さん、博物館の館長さん等、様々な分野からの講師の方々でした。

 

その中で昨日のオホーツク文化の人々についてお話されたオホーツクミュージアムえさしの館長でいらっしゃる高畠孝宗氏のお話が最も心に残りました。オホーツク文化を研究されている考古学者、根っから考古学が大好きなお方で、聞き手の心を捉える熱気あふれた講演でした。

 

オホーツク文化というのは日本人の中でも知らない人がほとんどかもしれません。北海道にのみ存在し現在では消え去った文化、時代的には縄文時代とアイヌ文化の間の時代のまだ解明されていな狩猟民族の文化です。

 

さてその中で北海道のオホーツク文化の研究者の研究者として網走のモヨロ貝塚の発掘にし一生をささげた青森出身の網走郷土博物館の館長であられた米村喜男衛氏をご紹介されました。私は網走郷土博物館という名を聞いた瞬間にすぐにこの方は高坂和導の小学生時代の恩師であると直感しました。ミュージアムえさし館長の高畠孝宗氏は詳細は「司馬遼太郎の街道」をお読みくださいとことでした。

 

講義が終わって私の学校の近くの渋谷図書館で早速「司馬遼太郎の街道」を借りて、そして自宅にある高坂の自著「ドンでも発想で生きてみないか」を読み直してみました。やはり私の直観は当たっていました。

 

高坂は小学校1年生の時に高坂の父の網走港建設の仕事のために、一家は故郷の青森より網走に引っ越しをしました。津軽弁で訛っていたので学校でいじめられたと言っていました。小学校の近くには網走郷土博物館があり、毎日そこで古代の土器を見ていたそうです。その当時の館長が米村喜男衛氏で同じ青森出身ということで毎日飽きずに通う高坂をとてもかわいがってくれたそうです。

 

米村喜男衛氏はモヨロ貝塚を発掘される高名な考古学者でしたが、大学で研究したというのではなく自分で営む理髪店のかたわらコツコツと研究されたエリート学者ではなくたたき上げの方でありました。モヨロ貝塚はオホーツク文化の先住民住居遺跡です。日本の考古学者が集まる学会も開かれたそうです。

そして何とこんな席にも米村喜男衛氏はまだ小学生であった高坂にも参加させてくれ、何と質問までさせてくれたという高坂の手記が残っています。

 

この網走時代に培われたこの感動と経験が彼の人生に大きく影響を及ぼしたことは間違いありません。学歴は全くないにも関わらず、多大なる功績を残され、そして子供たちにまで大きな道を開いてくださった米村喜男衛氏のような方は現代においてはなかなかいらっしゃらない存在です。既に1981年に他界されていらっしゃいますが、網走郷土博物館の館長は息子さん、そしてお孫さんに引き継がれているそうです。

 

網走時代の自然と遺跡に囲まれた環境は子供にとっては本当に素晴らしい素地となったことでしょう。全く学歴にはこだわず、英語があまりわからずも20代の若い時代から宇宙考古学会に参加したり、外国の人々とコミュニケーションが自然のうちにとれたのでしょう。

 

わたしも高坂が他界してから1度は網走には行っていますが、通り過ぎただけで網走市立郷土博物館もモヨロ貝塚も訪ねたことはありません。そんなことを思いながら、手帳とにらめっこ。思い立ったら吉日、やはり気になるのです。航空機とホテルの予約を済ませました。また9月に新しい旅が加わりました。

 

北海道のみに存在するオホーツク文化に今、スポットを当てています。それはアイヌや縄文を理解する上では不可欠は謎の時代だからです。