東ティモールの悲劇 | 竹内文書の世界を旅する三和導代のブログ

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三和 導代 です。

2002年に東ティモールか独立して15年、やっと平和な時代が到来しました。16世紀にポルトガル領となり、1975年にやっと独立を果たしたかと思いきや、わずか2週間後にはインドネシア領となったのです。

このインドネシアに占領された時代には今の首都のディリの人口より多い24万人の人々が虐殺されたそうです。また飢餓による死亡者も後をたちませんでした。

ではなぜこの地が狙われたのでしょうか。ポルトガルがこの地に目を受けたのは白檀の産地であったからです。キリスト教布教の目的もありましたが、この白檀はとても高い香料として取引をされていました。この白檀がなければこの地は狙われることはありませんんでした。

そして地下資源、海底油田そして天然ガスがインドネシアにとっては非常に魅力のある土地であったのです。となりの西ティモールはインドネシア領ですので、当然島全体をインドネシアとしてはほしかったのです。

白檀、天然資源がなければこの地は他国からこれほどまでに狙われることはなかったのです。

日本がもし天然資源が豊富な国であれば、大戦後占領、あるいは分割されていたに違いありません。