西東雑論 -9ページ目

「檄を飛ばせ」 後記



  この表題の着想は、今回書くに当たって、付けたものです。表題自体は、ある意味でどうでもよく、この陳琳による「為袁紹檄豫州」を扱いたかっただけ、ただそれだけです。以前に着手した事があったのですが、途中で断念してしまっています。2009年04月02日に着手して、同年同月14日に筆が止まっています。第一段を終えたところです。書く物全てと言っていい程に、始まりと終わりの日時を入れているので、それが分かります。止めた理由は、飽きたと言うのもあったと思いますが、やはり、書き下しや訳がないと、これ以上は続けられないと、諦めてしまったのかもしれません。そこらへんは、記憶に残っていません。再開したと言う事は、書き下しや訳が手に入ったからに他なりません。僕が住んでいる市立図書館には、漢文大系だと思うんですが、かなりなのか全部なのか、書架に出ているため、それをコピーしてきたのです。あるのは知っていたんですが、なかなか図書館って行かないもので。

  この第一回では、結論を誤用ではないと言う点に持っていこうと思い、そのような設定をしたのですが、それ以上に言わねばならない事が出てきたので、そちらにシフトさせました。つまり、信頼を得ていない人の言は、相手を鼓舞する事は出来ない、と言う事です。思ったよりも長くなってしまいましたが、時期的にはちょうど良かったかもしれません。最近の若い人は、ちょっときつく言ったくらいで云々、と言う言葉が、たぶん、職場やテレビなど盛んとなるでしょう。しかし、新しい環境に慣れている途中であり、相手が先輩や上司と言うだけで、委縮してしまう状況なのに、そこにきつい物言いをされたら、それは堪えます。厳しい物言いではなく、きつい物言いです。感覚的な違いですが、このニュアンスの差は、何となく掴んでいただけると思います。言ってる当人からすれば、「厳しい」と思っているのかもしれませんが、受け手からすれば、それは「きつい」でしかないんです。それは、やはり、信頼関係が無いからです。委縮する相手からの言葉ですから、余計にそう感じられてしまいます。俺らの頃もこうだった、などと経験を語られても困ります。俺らがやられたから、後輩にも一年子にも同じ事をする。正に日本の運動部のそれです。いつまで学生気分でいるんでしょうか。いや、学生じゃない。更に範囲の狭い、学校の部活の関係性を、会社にまで引っ張ってきていて、それを正当化させているに過ぎない。正に幼稚性の現れ。賢者は歴史に学ぶとか言う言葉が示すように、経験を咀嚼して、客観視を加える事により、その経験が何を意味するのか、と言う工程を経なければならない。それを経ずして口を開く人間が、果たして信頼を得られるでしょうか?そう言う風な方に、論点をずらそうかと思い、多少はそちらに舵を切りました。

  本来の着地点は、誤用ではないと言う事です。これは示せたと思います。そして、最後に書こうと思っていたのは、これこそが誤用である、と言う言です。「隗より始めよ」がそれです。これは、いつかやろうかと思っていますが、今回と同様に歴史に触れなければならず、それはそれで楽しい部分もあるのですが、時間が掛かると言う理由で、ちょっとどうしようかと思っています。『戰國策』も図書館にあるので、出典に拠るのは、コピー代さえ厭わなければ簡単なのですが。



「檄を飛ばせ」 第三十五回



  第一回にて、「檄」の字義を、各書が説くところのものを引用した。今、再びここに示す。『玉海』には「檄,軍書也.」と、『韻會』には「陳彼之惡,説此之德,曉諭百姓之書也.」と、『修詞鑑衡』には「檄者,激發人心而喩之禍福也.」と。確かに、陳琳による「為袁紹檄豫州」は、この説くところに即していると言えよう。しかし、やはり、軍書であるため、「彼之惡」や「喩之禍福」に重点が置かれており、このままの意味を以って、鼓舞すると言う意味に用いる事は難しい。ただ、その論理展開は、鼓舞するのに適していると言えよう。鼓舞すると言うのは、頑張れと言ったり、気合を入れたり、所謂「葉っぱを掛ける」事では無い。「激發人心」がその根本になければならない。そのために、「陳彼之惡,説此之德」の論理展開が求められる。軍書ではないが故に、「陳彼之惡」は効果が薄い。相手を卑下したところで、「激發人心」は出来ない。「説此之德」を説かなければならないが、「德」を説くと言うのも、また少し違う。

  鼓舞と言う語が用いられる事が多いのは、スポーツであろう。どのように鼓舞するかと言えば、こちらが優位な状況であると言う事を、熱い言葉を以って説くのである。この優位点が「德」と言えよう。であれば、「彼之惡」は、こちらが優位となる点が陳べられる。スピードが落ちている、集中力が切れている、スタミナ切れ、などがそれに当たろう。だからこそ、こちらの優位点を挙げる事によって、もう一度、士気を上げる事が可能なわけである。

  では、誰が言ってもいいのか、と言えば、それは違う。それが、頑張れとか気合を入れる言葉を掛けるのと、決定的に違う点である。マラソンで沿道から頑張れの声援が掛けられれば、確かに励みにはなるであろうが、士気が上がるまでには至らない。コーチが先頭や後方とのタイム差を告げ、残り距離を考えて、「ペースを上げろ」や「ここが堪え時だ」などの指示を掛ける事によって、現状認識、目標設定が為される。これによって、士気を上げる事が可能となるのである。つまり、信頼の置ける人が、的確な情報提供をして、それに基づく指示を出すこと、これがスポーツにおける鼓舞と言えよう。

  しかし、いくら適当な人が的確な指示を出しても、「激發人心」するに至らなければ、それは単なる指示でしかない。これはテレビで見たくらいの情報なので、どこまでがどこまでなのか分からないが、「激發人心」する言葉と雰囲気を以って、士気を高めているのを見た事がある。NFLの、あれはミーティングであろうか、激しい口調で何かを言っているシーンである。何か、と言う表現からも分かる通り、言っているのが現状認識なのか指示なのかは分からないが、皆なが一つの目標に向かって、意思、意識が統一されていくのが見えてくる。しかし、ここで同じような言葉を、全くの新参者であったり、信頼を得ていない者が言ったとしても、それは相手の心に響かない。つまり、鼓舞に必要なのは、その言を発する者が、如何に信頼を得ているかにある。それは、当然に、一朝一夕では築き得ない。

  およそ人の感情を、喜怒哀楽で言えば喜と楽の正の感情に持っていく事は、これは容易ではない。お笑い芸人が分かり易いであろう。会場が笑う雰囲気になっていないと、なかなか笑いは起きない。だからこそ、前説や前座のように、場の空気を暖める役が必要となってくる。また、それまで全く売れていなかった芸人が、一夜の賞レースで頂点を極めれば、瞬く間に売れっ子芸人へと生まれ変わる。それまでは全く受けなかったネタでも、受けるようになる。笑える信頼感を得ているか否かと言う事が、これを分けている。遊園地などに行っても、ただ付き添いや相手の希望を叶えると言う理由だけで来た人は、楽と言う感情を見せる事は無いだろう。いや、逆に苦痛や疲労と言った、負の感情を帯びる事さえある。感情が正に向かうためには、それがどのような場であろうとも、信頼感が必要と言う事がお分かりいただけたのではないかと思う。鼓舞はイコールで信頼なのである。

  そして、最も重要なのが「如律令」である。このままの意味では、やはり、取れない。第三十四回の最後で陳べたが、前言を食む事も、法を枉げる事もしないと言う事が、この意味である。言う事が前後や、事の結果によって変わったり、気分や感情で勝手に解釈を変えたりしない事である。これは信頼を得るためには、絶対に必要な事である。



「檄を飛ばせ」 第三十四回



其得操首者,封五千戸侯,賞錢五千萬.部曲偏裨將校諸吏降者,勿有所問.廣宣恩信,班揚符賞,布告天下,咸使知聖朝有拘逼之難.如律令.

其れ操の首を得る者は、五千戸侯に封じ、錢五千萬を賞す。部曲、偏裨、將校、諸吏の降る者は、問う所の有る勿かれ。廣く恩信を宣し、班(遍)く符賞を揚(明)らかにし、天下に布し告げ、咸な聖朝に拘逼の難の有るを知らしめん。律令の如くせよ。


  つまり、論功行賞である。後になってから揉めるような事が起きないよう、ここではっきりさせている。「錢五千萬」は、身銭を切って出せるであろうが、「封五千戸侯」はどうであろうか。別の場所であるが、『資治通鑑』の注にその説明があったので、以下に引用する。

帝封諸王,以郡為國。邑二萬戸為大國,置上、中、下三軍,兵五千人;萬戸為次國,置上軍、下軍,兵三千人;五千戸為小國,置一軍,兵五百人。王不之國,官於京師。

  これは皇帝事である事が分かる。これを勝手に約束してよいのであろうか。此度の大義は「並匡社稷」であり、曹操の手から皇帝を奪還する事にある。つまり、今までのように勝手に出来なくなるわけである。もしこの通りに実行しようとすれば、皇帝の意思を無視して専横している曹操と同じになってしまう。曹操が倒されて、新たな曹操が生まれるに過ぎない。これを正当化させる方法となれば、袁紹が自ら皇帝に取って代わる事ではないか。それを暗に示しているように思われる。

  「部曲偏裨將校諸吏降者,勿有所問」は、実際に戦闘に参加した時の決め事である。降服してきた者を、無条件で受け入れるのは、事後の評価を考えてのものである。正に雌雄を決する戦いであれば、戦闘の激化は必至であり、そうなれば激しく抵抗した者を殺害するのはよくある事である。しかし、敵対勢力を討ち滅ぼし、これを取り込むに当たって、これをやってしまっていると、当然に入るのを承知しない者を多く生み出してしまう。承知しないだけでなく、明け渡しに抵抗したり、地下に潜って常に憂いを為す者となってしまいかねない。それは避けなければならない。

  「廣宣恩信,班揚符賞,布告天下,咸使知聖朝有拘逼之難」とはどう言う事か。論功行賞はここに保証されていると言う事もそうであるが、この檄文を受け取った者は、この危急の報を更に拡散せよ、と言う事である。最後に「如律令」と記す事によって、前言を食む事も、法を枉げる事もしないと言う事を示し、相手に安心を与えようとしている。