「檄を飛ばせ」 第三十三回
即日幽并青冀四州並進,書到荊州,便勒見兵,與建忠將軍協同聲勢.州郡各整戎馬,羅落境界,舉師揚威,並匡社稷,則非常之功,於是乎著.
即日、幽并青冀の四州は並び進み、書は荊州に到らば、便ち見兵を勒し、建忠將軍と聲勢を協同す。州郡は各々戎馬を整え、境界に羅落し、師を舉げ威を揚げ、並びに社稷を匡せば、則ち非常の功の、是に於いてか著れん。
「即日」とは、「当日」と取れば、現状入っている進軍状況となり、「近日」と取れば、動く手筈となっていると言う意味となる。どちらにしろ、動員される軍が陳べられているわけである。その軍は、幽州、并州、青州、冀州の自軍と、援軍勢力として、荊州、建忠將軍が挙げられている。第二十七回にて掎角の勢を為す軍として、正面から当たる并州、青州、冀州(大軍)、後方から当たる荊州は挙げられていたが、ここではもう一つ、幽州が挙げられている。幽州とは、袁紹の中子で幽州刺史の袁熙の事である。今で言えば、北京、天津市と朝陽市の一帯で、河北省東北部と遼寧省西部の地域である。南は冀州に、西は并州に面している。つまり、袁紹は全勢力を注入していると言う事である。荊州は荊州刺史の劉表である事は、前に陳べられている。新たに出てきた建忠將軍に関しては、注が附されており、『三國志』「魏書」が引用されている。
張繡以軍功稱,遷至建忠將軍,屯宛,與劉表合.
張繡に関しては、第二十八回の最後で、曹操軍の現在を付記した際に出している。『三國志』に独傳があり、容量が少ないため、掻い摘んで以下に訳出する。
張繡、涼州は武威郡祖厲縣の人である。一族には驃騎將軍の張濟がいる。初平三年(192)の四月、董卓が殺されると、六月、張濟は李傕らと共に、董卓を殺した呂布を敗走させた。張繡は張濟に付き従っており、先々で軍功を挙げていき、建忠將軍に任命され、宣威侯に封ぜられるまでに至った。張濟は弘農に屯していたが、建安元年(196)、兵糧の不足を補うため、南下して荊州に侵入し、穰縣で略奪を働いたが、その最中に流矢に当たって死んでしまった。張繡は張濟の兵を継承すると、宛に屯して劉表と合流した。建安二年(197)の正月、曹操が南征を始め、張繡の討伐に乗り出した。淯水まで至ると、張繡は降服した。この時、曹操が張濟の妻を側妾にしたため、張繡は恨みを抱いた。曹操の耳にこれが聞えると、張繡を暗殺しようと謀った。その計を知った張繡は、機先を制して曹操に奇襲を掛けて撃ち破った。しかし、追撃を掛けたが返り討ちにされ、穰縣に退却した。これ以後、張繡は曹操と交戦状態に入ったが、どちらも勝ちを得られずにいた。
これ以後の部分は、更に掻い摘む。張繡は曹操と敵対関係にあり、誘いを掛ければ確かに味方につけられそうである。事実、建安四年(199)の九月、袁紹は張繡に使者を派遣して、迎え入れようとした。張繡はこれを聞き入れる事にしたが、謀臣の賈詡がこれに反対したばかりか、曹操に帰順せよと説いた。賈詡に全幅の信頼を置いていた張繡は、怨恨、対立を呑み込んで、曹操に帰順してしまったのである。荊州刺史の劉表が、援軍要請に応じながらも、軍を出さなかった事は、先に陳べた通りである。つまり、袁紹が挟み撃ちの掎として計算していた両勢力が、どちらも動いていなかったのである。
「並匡社稷」、これこそが正に、この檄文の冒頭で陳べていた「非常之功」に他ならない。これだと、「非常之功」を立てる人は、この檄文を受け取った人物であるかのように思える。もう一度、当該部分を以下に示す。
蓋聞明主圖危以制變,忠臣慮難以立權.是以有非常之人,然後有非常之事;有非常之事,然後立非常之功.夫非常者,故非常人所擬也.
「非常之功」を立てるのは、言い換えれば「明主」であり、「明主」が「非常之事」に対して「圖危以制變」する事によって生ずるものである。「忠臣」が為すのは「慮難以立權」である。つまり、この計画に参加して、「非常之功」を挙げるのに助力した「忠臣」の一人として名を連ねないか、と言うのがこの意味である。
「檄を飛ばせ」 第三十二回
操又矯命稱制,遣使發兵,恐邊遠州郡,過聽而給與,強寇弱主,違衆旅叛,舉以喪名,為天下笑,則明哲不取也.
操は又た命を矯めて制を稱し、使を遣して兵を發す。邊遠の州郡の、過り聽きて而して給與し、寇を強くして主を弱くし、衆に違いて叛に旅(連)なり、舉げて以って名を喪わば、天下に笑わるを恐るれば、則ち明哲の取らざるなり。
皇帝を手中に収めていると言う事は、「矯命稱制」を行うなぞ造作も無い事である。「矯命」の「命」とは君命の事であり、それと偽って発する事である。「稱制」の「制」とは「命」の言い換えで、始皇帝が定めたものである。つまり、同じく君命と称して発する事である。これによって、これを受け取った勢力に軍を出させようと言う魂胆である、と。
戦争となれば、対立する勢力以外の他勢力を、自勢力に引き込もうと言う工作が行われる。この檄文も、正にその為のものである。しかし、その主が、一勢力主によるものと、皇帝の名が冠された者であれば、どちらが信用を得るであろうか。当然に後者であろう。しかし、その皇帝は、今や曹操の手に落ち、その行動に意思を示すことが出来ない状態にある。中央に近かったり、中央の状況に通じていれば、このような情報は得る事が出来ているであろうが、「邊遠州郡」となれば、この状況についての情報量が少ないために、これに応じてしまう可能性が出てくる。応じた者とすれば、皇帝の呼び掛けに応じ、皇帝の一助となるべく動いたつもりなのであるが、その実、その皇帝を拘束している曹操を強める事を為そうとしているのだと訴えている。この檄文は、袁紹、曹操のどちら側にも附いていない勢力にだけ飛ばされた物ではないはずである。曹操側に附いた、附こうとしている勢力にも飛ばされているはずである。その勢力には、内情を知った上で附いた者もいたであろう。しかし、それが恥辱と為るであろう、と訴えている。知った上で附いた者は、このまま漢朝は滅び、曹氏の世になると踏んでいた者もいたであろう。それが、「喪名」に繋がると言う理由は、つまり、曹操はこれから始まる戦争によって敗れ、皇帝をその手中から失うからに他ならない。それは、皇帝は袁紹の庇護の下に置かれる、と言う事を示唆している。
逆臣が勝つと踏んでそちらの側に附くだけでも、実は笑われる事になるわけだが、その逆臣はこれからの戦いで敗れる事になっており、その算段も失われれ、やはり笑われる事になる。それだけでは済まない。皇帝の庇護主が入れ替わり、これによって逆臣の悪行が天下に暴露され、それは「喪名」に繋がる事は必至である。「為天下笑」も、もう回復不可能と言うレベルのものになってしまう。そのような事は、「明哲」は選択しない、目指さないわけである。「明哲不取」と訴える事によって、受け手の心理を揺さぶる効果を発揮すると共に、この戦いにおける勝算に対する自身の高さを明示しているのである。
「檄を飛ばせ」 第三十一回
又操持部曲精兵七百,圍守宮闕,外託宿衞,内實拘執,懼其簒逆之萌,因斯而作.此乃忠臣肝腦塗地之秋,烈士立功之會,可不勗哉!
又た操は部曲に精兵七百を持って、宮闕を圍守するに、外には宿衞と託つも、内には實に拘執す。其の簒逆の萌の、斯に因りて而して作るを懼る。此れ乃ち忠臣の肝腦の地に塗るるの秋、烈士の功を立つるの會なれば、勗めざる可けんや!
朝廷内に目を光らせているだけでなく、皇帝すら行動を制限されている事を訴えている。前線にいる兵とは違って、こちらは曹操軍の精鋭を配している。それで宮闕の周囲を取り囲み、表向きは警護の為とと称しているが、その実、皇帝が宮闕の外に出られないようにしている。いや、皇帝だけでない。その近習の者が外に出る事も関していたろう。皇帝の意思は、宮闕の内部に留まり、外界と遮断されたままであり、言い換えれば、これが皇帝の意見、意思であると言えば、確かめようが無く、まかり通ってしまうと言う事である。
ここから見えてくるのは、國家簒奪であるのは明白である。この危急存亡の秋にあって、「忠臣肝腦塗地之秋,烈士立功之會」と言う。前回、第三十回に「雖有忠義之佐,脅於暴虐之臣,焉能展其節?」と陳べていたが、暴虐の臣に脅かされたからと言って、その節義を全う出来ないとは、果たして忠義の臣と言えるのか、と言う疑問が浮かんでいた。しかし、幾ら忠義を抱こうとも、暴力に対して簡単に立ち上げれるものではない。誰か指導力、求心力のある人物が決起を促し、先頭に立ってくれなければ、その忠義を発露し難いのであろう。暴力に対するには、やはり、暴力しかない。そのような時代であった。臣の一人が動いたところで、どうしようもないのである。黄巾の乱にあっては、義勇兵を率いて立ち上がったのが、劉備である。宦官に何進が殺された時、その仇討ちに動いたのは、袁術であった。董卓の専横に対しては、橋瑁が三公の名を以って書を偽作した事で、各地の群雄が兵を挙げた。袁紹はこれらを見ており、後二つには参加している。では、曹操の手から皇帝を奪還する為に、その先頭に立つのは誰か、それがこの檄文の主である袁紹だと言う事である。だから、「可不勗哉」と訴え掛けている。
なお、『後漢書』及び『三國志』では、ここで終わりとなっている。