その文字に美しさを感じるのは、その書き手の動きが美しいからこそ。その動きが美しいと感じるのは、その佇まいが整っている(自然と調和している)からこそなんだろう。
何気なく持ったペットボトルに触れる手は、筆の持ち方の理想形(虚掌実指)に、限りなく近い。
しかし、いざ筆をとって書こうとすると、ギュッと手を握りしめて筆の動きを制限してしまう。だったら力を抜こうとしても、今度は、筆の弾力を引き出せなくなってしまう。
稽古や練習をする前からできることなのに、いざやろうとすると、不自然になってしまう。
そもそもに持てる筆が、そもそもに引ける線が、そもそもに書ける字が、なぜだか違和になってしまう。
そこにおいて、まずやるべきことは、反復練習であろうか。腕を磨いたり、心身を鍛えたりして、何かしらを足し引きすることなんだろうか。
鍛えるものでの磨くものでもないとしたら、いったい何をすればいいのだろう。
道場を開いて12年ほど。いろんな稽古実験を積み重ねてきた中で感じていることは、いかに等身大の自分の素晴らしさを知ることが大切か。
ありのままの自分の姿の美しさを味わうこと。そこに書の前提があり、そこに美しさの源泉なるものが、あるのかもしれません。