いにしえ(古)に学び、あたらしき(新)に導かれる稽古。
今月は、中国の書では唐代楷書(褚遂良など)や清代碑学派(楊峴など)、日本の書ではかな(本阿弥切など)が素材です。
その人の書の在り方は、「書く前の振る舞い」に決定づけられる…と言っても言い過ぎではないように思います。
足の置き方、墨汁のつけ方、穂のまとめ方…「古の達人の振る舞い(身体性)」と「現代令和の私たちの振る舞い」では、どのような隔たりがあるのか。やはり、「書かない書の稽古」(バランストレーニングなど)を積極的に取り入れることは、ますます大切になっています。
書は、アートや芸術という括りでは言い尽くせません。文学や歴史など、そこに様々な教養性が反映されています
書においては「線」ではなく、本来は「画」です。例えば、「横線」ではなく「横画」。「描く」ものではなく「書く」ものです。
「書く」という行為には、横画だったら左から右に始筆・送筆・収筆の順がある「時間性」(順序性)や、穂を立てたり開いたりといった「毛筆性」などが含まれています。
たった、一本の横画を書くだけでも例えば、その始筆(筆の入れ方)は、王義之のような自然法か、趙之謙のような人工法か、どのような歴史的バックボーンを踏まえて書かれているのか。細やかに読み取りあっていきます。
書の「基本稽古」といえば、古典(昔の達人が書いた書)の臨書がですが、古典の特徴を捉えるためには、それが書かれた歴史的背景を学ぶ必要があります。
例えば、楷書完成期の唐の時代は、どのような社会だったのか。白村江の戦いやタラス湖畔の戦いといった、当時の世界全体の情勢についても俯瞰する機会を設けていきます。
中国清代になると、書の世界も近代化の波に飲み込まれていきます。
言い換えれば、伝統的王義之書法からの乖離が甚だしくなっていくのですが、例えば、楊峴と王義之の書では、どのような違いがあるのか。その距離感に対する目盛りが精密になればなるほど、臨書の精度も上がっていきます。
古典やら臨書と言えば、一般の人からすれば、なんだか堅苦しく感じられるかもしれません。また、臨書を「お手本を写す」という西洋的な「copy」の意味でとらえてしまい、「創造性がない」といったマイナスのイメージもあるのかもしれません。
しかし、生徒さんの表情をみればわかりますが、臨書ほど面白く、で臨書ほど創造性のある書の稽古はありません。
ワークショップなどで場当たり的に創作するような行為とは、愉しさの質が根本的に異なります。
長い歴史の中で磨かれてきた「人類の叡智」に直に触れることでこそ、創造性が磨かれていくものです。
歴史や文化といった壮大なスケールの中に身を置くことで、おのずから、自分の人間性が磨かれていく。決して、自分の人生だけでは気づけなかった「新しさ」に出会う。
地味だからこそ、ダイナミックな感動に巡り合える機会を、今日もまた分かち合っています。
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