おはようございます、たけちです。
2024年・令和6年2月24日土曜日、みなさん、いかがお過ごしになりますか?
たけちは昨日筑波山に登りませんでした
だって、めっちゃ寒かったんだもん
雪混じりの雨の中板東33所の筑波山大御堂と佐竹寺をお詣りして、久方ぶりの100名城の一つ
水戸城弘道館に行って来ました。そして、水戸ナイトを満喫して1泊
そして今日は梅でも見に行きますかね
さて、今日は群馬県の続100名城のひとつ沼田城を紹介します。
【沼田城本丸堀跡】
沼田城は平山(丘)城
築城時期は1532年、築城主はこの一帯の有力な国人だった沼田顕泰
と言われています。
【本丸ぽくない本丸跡】
1560年以前、山内上杉氏が没落したため、沼田氏の中でお家騒動が起き、北条氏側につくことを明白にします。そのため、上杉謙信に攻められ、一時期は上杉氏に占領されますが、謙信の死後北条氏が再占領します
1578年御館の乱において上杉景勝と武田勝頼が同盟を結びます。この際、上杉氏は沼田城への武田氏の侵攻を黙認することを約束します
そして勝頼はあの男に沼田城の攻略を命じるのです。
あの男・・・そう真田昌幸です
1580年昌幸は調略により沼田城を無血開城、そして北条氏のバックアップのもと沼田城を取り戻そうとした沼田氏を滅亡させます
1582年本家の武田氏が織田氏の信仰により滅亡沼田城は織田氏の家臣滝川一益のものになりますが、同年本能寺の変により織田信長が死亡すると滝川一益は北条氏の侵攻を止められず敗退、続く旧武田領をめぐる徳川氏、上杉氏、北条氏の3つ巴の天正壬午の乱において真田氏は当初北条氏に降った真田昌幸が沼田城を支配しますが、徳川氏と北条氏の間で沼田城帰属問題が発生すると、昌幸は北条氏を見限り、上杉氏に帰属しますそして、徳川氏、北条氏の侵攻を退けるのです。強いぞ昌幸!
1589年豊臣秀吉の裁定(名胡桃裁定)により沼田城は北条氏に帰属することになります。
その後どうなったかは当ブログ「名胡桃城(79/続100)」を参照にしてください
1590年北条氏が滅亡し、沼田城は真田氏に返還されます。そして、昌幸の嫡男信幸が入り、
近代城郭に整備します。
【沼田城跡西櫓台石垣】
1600年関ヶ原後、東軍についた信幸(以降信之に改名)は沼田領と上田領を合わせた上田藩を成立させます。
1622年信之(大変長生きしました💦)は松代藩加領のため本拠地を松代城に移動、沼田城に分家真田氏を配置しますが、1658年沼田藩として分離独立します。
【昌幸の謀略の跡、こわっ】
1681年分家真田氏の暴政等により改易、沼田藩は天領となります。
1682年沼田城廃城
名城スタンプ及び御城印は沼田市観光案内所で頂けます。
調べれば調べるほど
沼田城帰属問題をややこしくした男は真田昌幸です
北条氏も昌幸がいなければ滅亡していなかったかもしれません。
まさに表裏比興の者とはよく言ったものですね