死
先日、一日で人身事故に2件遭遇。
5月病とGW明けの月曜日だから?
遅延する列車に舌打ちする人もいる。
新卒未就職の自殺者も2.5倍ですか?増えてるそうです。
殺人と自殺、どちらがこの世の中にとってひどい事なでしょうか?
‘死’を人より考える時が多い気がする。自死するためじゃ無いです。
幼稚園はキリスト系、大学は仏教系と宗教感もバラバラ。
流行った‘千の風になって’の歌詞や死後の世界や輪廻も含めて‘死’が語られる時はいつも残された(生きてる)者への救いとしてではないか?
罪悪感や無念、不安や死者に対する悲観など…それらを和らげる為に‘死’は語られてる気がする。
‘千の風…’の詞の内容が正にそうでしょ?
‘死’を迎えた者はどんな過程を経たとしても‘死’という結果は同じだ。
ミイラや土葬や火葬、風葬、古墳、いろんな弔い方が在るが‘死’は‘死’で当事者にとって対応の良し悪しは無いだろう。
繰り返すが、死は死であって平等。違うのは死に至る過程で、人々はその過程や生前の立場に感情が揺さぶられている。
物語をつくると言う人もいる。
人は‘死’を痛むのではなく自身の感情によってつくられた物語に涙するのではないだろか?
海外の悲劇や多数の死よりも、身近な少人数の惨劇に涙する。
物語には想像力がいる。
対象が異文化や多数だと想像は難しい。
身近な程、共感し泣けるのは生前を思い描けるからではないか?
何故こんな事を考えるかと言うと社会から‘死’が遠ざけられリアリティーを失っている気がするのだ。
‘悲しみ’に視点をずらし美化すらされてはないか?
周囲の方々の嘆きを伝える。でも本当に辛いのは亡くなった本人。
また同時刻にひっそり消えていった命だって同じ‘死’だ。
残忍な殺人によって失なわれた命に対し被害者親族は犯人の極刑を望む。世論も共感に傾く。
じゃあ、その命が不慮の事故が原因だっなら…不注意が原因だったなら?
周囲の感情はどうなる?
でも当事者には同じ‘死’だ。平等な‘死’だ。
そこに価値の優劣はない。
被害者も死刑執行の加害者も、亡くなれば同じだ。
違うのは、生きている我々の感情た。
どうしてだろう?
それが知りたい。
‘死’について考える…なんて冒頭で述べたが実は自分が考えているのは‘死’に対する感じかたの違いかも知れない。
東北の震災に涙した人は多いだろう。じゃあ直前のオーストラリア地震は?中国の地震は?スマトラ島の津波は?近所の斎場で行われている葬儀は?涙はどこまで…
殺人事件を調べると、ホントに指一本づつ切られたり、皮一枚づつはがれるような…怒りに震えるような無慈悲な惨殺も数多くある。
しかし情報が‘拉致監禁の後、殺害’だけだったなら…
渡航禁止区域に入り拉致され、身代金要求に政府が応じず殺害された事件。どこか、しゃあないやんという世論とご家族の気持ち…
なんだろう?
不思議な違和感と、疑問は晴れない。
まだまだ考えてみよう。
亡くなられた全ての方に、ご冥福をお祈りいたします。
だんじり祭
写真でほとんど見えへんけど…
御影ではGWのこの時期、毎年だんじり祭が行われる。
地区毎に山車が出て、町内を巡行し本住吉神社へ向かう。
岸和田の様な荒々しさは無く、山鉾巡行みたい。
地区の老若男女皆で一台の山車を引く。
屋根上で皆を鼓舞する若衆、金や太鼓の鳴り物の年長者、山車を引っ張る若輩たち、それぞれが一生懸命役割をはたしていた。
以前、地元の子に聞いたら参加するのは誇りなのだと言っていた。
近年は以前より地域色の濃い祭りは活気を感じる。地域振興になるからでしょう。観光客も呼べるし…
ただ、あまのじゃくの自分が見ると何か違和感があるのだ。
参加者と観覧者の温度差?祭りの目的の形骸化?
花火大会にも通ずる同じ感傷。
神事の‘奉納’の部分かな…
山車や神輿のテクニックは引き継がれても、意味は引き継がれてるのかなぁ?
などなど、祭りの盛り上がりに反して冷ややかになる自分がいる。
でも、これも良いのかなって思った。
新興住宅地に育った自分は、こんな世代を越えたコミュニティを知らない。
少なくとも祭りが、町内をまとめ年長者に対する敬意を産むのに一役買っている。
神は居ないのだから、感謝の気持ちを育めるなら対象が不明瞭でも良いのかも知れないなぁ…
そう思って観ると、何だか羨ましかった。
どこかで、祭りはヤンキーのものって偏見があったから真っ直ぐ見れなかったのかな?


