みなさま、こんにちは、座右の銘は、「その場しのぎだから、生きていられる」笑
ぎふたけです。今回は、ちょっと傷ついています。
鈴木英史先生が「バンドジャーナル」誌3月号で、
『「本質」のところで、私たちが問われている。』と題して、
問題提起をされています。
鈴木先生によると、
パイパーズ誌1月号に指揮者の下野竜也氏の課題曲に対する下記のような意見があったとのことです。孫引きで、箇条書きに変更してあり恐縮ですが、下記の通り。
「行進曲が行進曲となっていない」
「和音和声の間違いがある」
「音楽作品としてのクオリティに問題がある」
「そんな曲を中高生が長期間取り組むのは明らかにおかしい」
「サウンドだけを磨いても、中身が何もない演奏には意味がない」
それを踏まえて、鈴木先生は、下記のように言われます。
下野氏の指摘は、「音楽」という観点からの意見であり、
「いったい何のことかわからない」という吹奏楽部関係者も多く、
そういう人たちは、「音楽」に向き合っておらず、
別の方向に向いている。
コンクール的な演奏を実践し、
コンクールで結果を出すことを活動の大前提・根幹とすると、
音楽や楽譜を真剣に読むことは、少なくなる。
旋律重視で、リズムやビートを後回しにした公募課題曲の弊害は、
鼻歌的でカデンツもないと感じられる旋律で、
無理矢理リズムやハーモニーを後からはめていくので、
伴奏はお飾りでしかなくなる。
不自然かつ様式美からほど遠い和声進行のせいで、
明らかな「間違い」が課題曲中に存在することになり、
結果として、全体のサウンドだけを重視して、旋律が綺麗であればよいと考えてしまう。
「音楽の内容そのものと、演奏の幸せな一体化をどのように考えたらよいのか、
下野氏の発言から、多くの想いと危惧が巡るばかりです。
音楽に携わるすべての人が、それと真剣に向き合い、考えていかなければならない
ことなのではないでしょうか。」
最後の部分は、微妙な内容を含んでいるので、丸写ししました。
後藤洋先生もそうでしたが、鈴木英史先生も
課題曲の「基本的な誤りがあることと音楽的な質の低さ」を問題としています。
そうなのかもしれませんが、私にはわかりません。
「へえー、あれって、音楽的に質が低かったの?間違いがあったの?
そんな曲を課題曲に選んじゃったけど、不利にはなってないのかなあ。」ぐらいの
感想です。
だから、鈴木先生の主張されるその部分は課題曲を選ぶ(最近話題の)
全日吹連の人たちに向けられたものなのかと思います。
では、私たち、曲の好き嫌いや難易度やリスクの高さは言えても、
音楽的な質の低さや和声の誤りを指摘できない普通(大半)の吹奏楽顧問は、
「全体のサウンドだけを重視して、旋律が綺麗であればよいと考えてしまう。」ことをやめなさい。もっと、音楽をしなさい、音楽や楽譜を読み込むようにしなさい。
別の方向に向いていることに気が付きなさい。
と言われたのかなと思いました。
もし、そうならば、鈴木英史先生、ごめんなさい。
30年指導してますし、自分なりに勉強をしてきたつもりですが、
そこまで勉強できませんでした。間違った勉強だったのかとちょっとショックです。
サウンドを向上させ、旋律を歌わせて、リズムの楽しさ、よさを
体験させながら、大きな拍手がもらえるように、がんばってきたのが
「別の方向に向いている」と言われてしまっては、傷つきます。
課題曲レベルの作曲ができないのに、課題曲の質が低いとは、
私は言えません。
そして、生徒には、「目の前の曲のよいところを見つけよう」と、語ります。
ただ、私は国語科だから平気で「そこまで勉強できませんでした。」と言えますけれど、
音楽の先生でも、そういう人多いと思いますよ。
だから、鈴木先生のこの文章をよく読むと、
「私たち」の「たち」に勉強不足の普通の顧問の先生たちは
入れてもらえないみたいだとちょっと悲しい気持ちになります。
さらに、
文末の「音楽に携わるすべての人」に
「和声も音楽の質も理解できない普通の勉強不足の顧問の先生方」は
入れてもらえないようだと、かなり、傷つきました。
自分って大好きな音楽に携わってもいなかったんだ!!!
(ショックです。)
そうかそうかつまり君は音楽していなかったんだよ。
と言われてしまった気分です。
(「エージ」が、「少年の日の思い出」のエーミール???
じゃあ、その後には??もう大人ですからちょっと違いますけどね。
「模範少年」の「エージ」と学校もすっぽかしたりする「僕」では、
社会的評価として正しいのは、「エージ」です。)
僕は音楽していなかったんだ……。
音楽が好きな人、音楽をする人って、
いい人ばかりのはずなんだけどなあ。
よい日々をお過ごしください。