「考えるな、感じろ」の真意を繙く | 午前零時零分零秒に発信するアンチ文学

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「よくもまあ、こんなアホなタイトルを考えたもんだ」

 

皆様ご存じの通り「感じるな、考えろ」?…じゃなかった、「考えるな、感じろ」は、映画「燃えよドラゴン」の冒頭でブルース・リーが弟子に言った言葉である。

 

あまりにも素晴らしい言葉だったので何時しか名言となり、色々と権威ある人たちが「この言葉に隠された真の意味に迫る」なんてことを好き勝手にやりだした。

 

まあオイラから言わせれば、金儲けの道具にでもしない限りは好き勝手に書いてりゃいいし、それが正しいかどうかなんて大して意味もない。

 

結局のところ、ブルース・リー本人しか知らないのである。

 

■「考えるな、感じろ」は拳法の練習中だった

 

弟子が練習中に「良い蹴り」を出した。師匠のリーが「それだ、その蹴りだよ」という。で「どうだ?今の気分は?」と訊かれた弟子は、少し困った様子で…「んんん~そうだなあ~」と言いかけた時、頭を叩かれ師匠から画像の名言が出た訳だ。

 

話は少し変わるが…

 

少年ジャンプで読んだマンガの話。身体は弱いが格闘ゲームの天才がいた。男の子なんだけど、彼は実際のケンカで自分の腕前がどこまで通用するのか興味を持った。そこで、そこそこ腕っぷしの強い大人を相手にするのだが、戦うのは男の子自身ではなく、通信機を使って自分の代わりに戦ってくれる高校生を選んだのだ。

 

代わりに戦ってくれるのが、スケバンと呼ばれた不良女子高生。中々の反射神経をしている。リアルなストリートファイトの始まりだ。結果は、女子高生が実力以上のものを出した。サシでなら勝てるかどうか分からない相手に、あっさりと勝ってしまったのだ。

 

彼女は何も特別なことをした訳じゃない。通信を通して、ただ男の子からの命令通りに戦っただけなのだ。「右ストレート」「避けてハイキック」みたいな…。

 

だが、更に相手のレベルが上がっていくと、そう簡単には行かない。なぜか?

 

「ロス」が発生するからだ。命令という名の情報を送受信するロスだ。情報から動作に入るまで僅かながら「思考」が入るのだ。その間にやられる。

 

結局のところ、女子高生は通信機を投げ捨ててしまったのだ。

 

■ヒューマン・エラーはなぜ起こるのか?

 

以下のサイトが詳細に書かれている。

 

 

とても素晴らしい分析力だと思う。オイラには到底出来ないね。

なぜか? それは「こういった話には際限がない」からだ。

 

要するに、どのヒューマンエラーでも原因は「不要な情報が入っていたから」に他ならない。失敗は必然だったのだ。では「そんな他の情報はどこからやって来たのか?」と言えば、いうまでもなく自分自身が思考したからだ。

 

工場で流れ作業していた時、ふと集中が切れて「俺の人生、一生こんな事やっていていいのか?」みたいなやつだ。他の事を考える。勿論、他者を媒介したことにより、不要な思考をせざるを得なくなった場合もある。

 

思い込みも勘違いも習慣も、全て思考から来るものだ。

 

■細胞は1人当たり全部で約60億個あると言われている

 

人間の細胞は「破壊→再生」を繰り返しており、3ヵ月も経った頃には60億個全部の細胞が入れ替わるのだそうだ。だから、容姿は類似していても肉体は別人ということになる。だから…

 

一生愛を誓い合った夫婦が、1年も経たないうちに「まさか、貴方がそんな人だとは思わなかったわ」なんてことをいう。そりゃそうだろう…生物的には

 

そんな人では無くなっているんだからねえ。

 

だから、肉体が変われば思考も変わるだろうし、好みだって変わるだろう。

そもそもだ。夫婦そろって1年近く経過しているのだ。だから、肉体的には両方とも別人になっている。「あんた誰?」「お前こそ誰だ?」ってなる訳よ。

 

そういえば、最近ここのブログでも10年前の記事がよく読まれているものの、あの頃のブロガーは別人だ。だから、オイラとは思考が全然違う。

 

だが、魂の部分では同じなのだ。そう思えば、スピリチュアリズムの名著「シルバー・バーチの霊訓」で、冒頭に登場するシルバーことインディアンの霊が「人間の本体が霊であり、神の分身。肉体は下僕であり乗り物なのです」と言っている事は、辻褄が合う。

 

だから、大抵の人間は、肉体というフィルターを介してしか思考できない。

 

そう思えば、肉体なんて随分と不安定なものだと判る。

 

■思考を完全に捨てるのは非常に難しい

 

なぜなら、人間として生きていくには、その肉体が大事だからだ。それ故に、思考もまた永遠不滅なものではない不安定な肉体を介してしか成り立たない。

 

そりゃあ、変なことも考えるだろうし、煩悩だって当たり前にあるだろう。

 

しかしながら、スピリチュアリズム的な表現でいうところの「神の思考」なら大抵は上手くいく。

 

本体の思考だ。つまり、肉体の思考をやめて「感じ取れた時」だ。

通俗的な言い方をするなら「水のように流れに乗る」ということになる。

 

敢えて心を静めて、じっと観察する。「風の音」とか「伝わってくる流れ」とか「雰囲気」とか、まあそんなものだ。そして、洞察するということだ。

流れを鋭利に感じ取り、水のようにありのまま動くということ。

 

「考えるな、感じろ」とは、そういうことだろう。多分。