知能指数の優劣は能力に反映するのか? | 午前零時零分零秒に発信するアンチ文学

午前零時零分零秒に発信するアンチ文学

時事問題から思想哲学に至るまで、世間という名の幻想に隠れた真実に迫る事を目的とする!

IQとは、「Intelligence Quotient」――いわゆる知能指数を数値化したものだが、これは人間の知能を判定する「知能検査」の側面である。

なぜ知能検査のようなものがあるのかといえば、国に言わせれば人間が社会に適応出来るようにする為であろう。自分自身の能力がどれほどのものかを各自で理解しておく必要がある、と考えている訳だ。

ところが、多項目に分類された知能検査を行ったとしても、能力を判定するには実際問題不足のほうが圧倒的に多いのだという。だとすれば、検査自体全く意味がないのではないかという話になるんだが、僕自身そうでもないと思っている。

特に、知能指数に関しては。

因みに、ギネスブック上で世界史上最も知能指数が高いとされている人物は、アメリカの「マリリン・ボス・サヴァント」という女性らしい。彼女の知能指数は記録上で「IQ 228」という数値になっており、実際の頭脳も常人離れしていたという。

このような数字の場合、いつ知能テストを受けたのかにもよる。検査の性質上、平均的に低年齢であるほどIQの数値は高くなりやすい。従って、小さいころから知的障害者であるのかどうかを判別するのにテストは向いているが、反面マリリンの「IQ 228」については否定的な意見が多い。

一般人の大半は「IQ 70~110」の範囲にあるらしい。だから、「IQ 120」なんてなると秀才の領域であり、「IQ 130」以上の人はごく稀なんだという。

余談だが、ルパン三世の知能指数は公式で「IQ 300」、映画「アルカトラズからの脱出」に登場する主人公・囚人モリス(クリント・イーストウッド)の知能指数は書類上で「IQ SUPERIOR!」と出ている。どちらも、吹き替えの声が山田康雄さんだったというのが興味深い。

よく、現代人よりも昔の人たちのほうが知能指数が高かったと言われているが、これはどうかと思う。アインシュタインやマズローの知能指数が「IQ 190」を超えてるとか、古代人の知恵と現代科学を融合すれば凄いものが出来るとかいう的外れな事をいう者もいるが、はっきり言ってどうでもいいことだ。

例えば、物心ついた頃から珠算を習っていて、ある程度計算のやり方が身についている子供と、何もさせてない子供とに、同じ計算問題をやらせると、当然ながら前者のほうが高得点になる。知能テストも全く同じで、少々頭が悪くても、解き方を知っているほうが有利になるし、成績も高くなる。つまり、訓練すればある程度は上げられるということだ。

それでも、先天的な知能というのは、やはりある。

僕の場合、知能指数は低かった。それこそ、知的障害ギリギリというレベルだった。しかし、特別ガッカリはしなかったんだ。寧ろ、頭が良くて何のメリットがあるのかなと思っていたくらいだ。

頭が良いメリットなんてものは、学校の勉強に役立つのと、せいぜい資格を取ったり、お金の勘定が出来ることくらいだろう。だから、学校の無駄な勉強をしなくて良かったと思っていたくらいだ。そんなことよりも、世の中を体感したほうがずっといいに決まっていると確信を持っていた。

従って、知能指数の優劣が能力に反映することは、殆どない。計算機の部分が発達していても社会に適応出来なければ何の役にも立たん訳だ。

寧ろ、現代社会を作っている集団の殆どは、平均的な知能指数の人間で占められている。テレビでは知的だと言われている北野武さんでさえ「IQ 108」(ツービートの著書「わっ、毒ガスだ」より)である。

従って、社会適応力という部分では平均的な知能指数の人間のほうが有利だろう。入っていきやすいからだ。反対に、知能指数が高すぎれば、そいつにとっては周囲が馬鹿にみえてしまうかも知れない。知能指数が低すぎれば、そいつにとっては周囲が宇宙人に見えてしまう。しかし、こっちの場合は努力次第で何とでもなる。で、その努力に頭の良さはさほど重要じゃない。

自分の能力(知能指数ではない)を知ることは重要だ。分相応な仕事に繋がる。但し、ここでいう仕事とは働いてお金を貰うという狭量なことだけではない。

幾ら頭が良くても、反対に悪くても、人間の知能なんて小指の第一関節くらいの差でしかないんだ。自慢したり卑下したりしたところで、屁の突っ張りにもなりゃしない。寧ろ、謙虚になってちゃんと学習できるかどうかである。

ペタしてね