人類の伝統 | 午前零時零分零秒に発信するアンチ文学

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欧米人に比べて日本人が短足やO脚が多いのは正座のせいだと信じられている。

子供の成長期に正座の習慣をさせると脚を痺れさせ、十分な血流が流れないから脚の発育を妨げるというのが理由だそうだ。一方で、正座マンセーな連中は、全く逆のことを言っている。「反って脚を強靭にする」とか「脚に流れるはずの血流が脳に流れるので眠くならない」とか「姿勢が良くなる」とか「苦しみに耐えることで精神統一になる」とか、数え出したら枚挙に暇がない。

まあ、どれにしても信憑性は薄いだろう。

「背筋が伸びて姿勢が良くなる」というのは尤もらしい主張だと思うが、寧ろこれは正座云々よりも、座って脚がしびれないように努力しているからだろう。例えば、肥満にならないよう食べ過ぎないようにしたり、運動したりすることによって身体のバランスを取ろうとしていたり、脚に負担をかけないような姿勢を正して背筋を伸ばしたりするのがそうだ。第一、正座なんぞは短い時間だから良いのであり、アホみたいに何時間もやるもんじゃない。

我々は、この正座こそが日本の伝統だという思いこんでいるところがあるが、記録上では中国でも紀元前から行われていたし、必ずしもそうとは言い切れない。

では、日本人の伝統といえば何か?という話になるんだが、これについては国家とか形式云々じゃない。伝統を作っているものは、個々が持っている精神とか思想とか発想など目に見えない部分である。それらが集団化して共同意識のもとで社会を作り、時代と共に受け継がれていく独自性を創るのである。これが伝統だ。

そういう意味では、日本人の伝統とは歴史的に浅いものだと判る。日本人は創造こそ乏しいが、他国の文化を受け入れて独自に改良していくという部分では一流だ。歴史的に最近なら、自動車技術などがそうだ。欧米の真似から始まったが、より高性能な車を造ろうと研究熱心なのである。で、手間隙かけることを惜しまない。性質的に細々した作業が得意というのもあるのだろう。

それと日本人は小型化が得意である。韓国もヒュンダイやKIAなどの自動車メーカーがあり、我が国にも進出を図ったが、やはり日本の軽自動車の技術には敵わなかった。これらの技術に裏付けられた良い物を造ろうとする精神は、立派な伝統と言って良いと思う。韓国から日本に来た知り合いは「日本の製品には真心がこもっている」といっていた。外交辞令ではなく、多分本心だろう。

野村克也氏の著書「巨人軍論」では、伝統という言葉がやたらと出てくる。何しろ読売ジャイアンツといえば球界のパイオニアだ。嘗ての正力松太郎オーナーが教訓としていた「巨人軍は常に強くあれ」「巨人軍は常に紳士たれ」「巨人軍はアメリカ野球に追いつけ追い越せ」は、球団の伝統になっていた。

それが一時期、FA制度で四番バッターばかり集めた大艦巨砲主義に依存し、精神も品格も失われていった。それを反省したのか、昨今のジャイアンツは立て直しつつある。全盛期には遠く及ばないがね。しかし、そうさせる力はやはり過去の実績に裏付けられる通り、代々から受け継がれた伝統にあるのだろう。

さて、その伝統なんだが――我々人類としては、果たして伝統と呼べるものがあるのだろうか? それは多分、社会の存続と人類の発展というものに集約されているんだろう。だから、戦争を起こしてきたし、宗教にも依存してきた。しかし、本当にこれから人類の伝統を創っていくのであれば、やはり世間に染まることなく社会の中で学ぶこと以外にない訳だ。で、学習したことをまた社会へ還元する。

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