曲がっているから真っ直ぐにもなれる | 午前零時零分零秒に発信するアンチ文学

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人間には何かしらの癖があるものだ。

「爪を噛む」「頭を掻く」「人前で大きな屁を垂れ流す」などの行儀悪い癖があれば、「浪費」「怠慢」「遅刻」のような社会的に好ましくない癖もある。

また、経験によって身に付いた癖もある。それは悪癖の場合があれば、一方で常人では決して真似の出来ない優れた癖だったりすることもある。

ところで、こうした癖は直したほうが良いのか?
それとも、直さずにいたほうが良いのか?

前者の場合、「癖=欠点(弱点)」という見方があるのだろう。幾ら優れた癖でも、本筋から逸脱したものであれば矯正せねばならないということだ。野球選手に喩えると解りやすい。普段は特異なバッティングフォームで安打を量産していても、いざ不調になると泥沼に嵌ってしまう。つまり、基本よりも感覚で打っていたものだから、直し方が解らないのだ。

後者の場合、「癖も個性のうち」と思っているのだろう。悪癖は良くないが、かといって無理矢理矯正してしまえば、本来の持ち味も消えてしまうのではないかと懸念しているのだ。

結論を言ってしまえば、癖を直そうとしても直らないかも知れないし、放置してしまうとますます悪くなるかも知れないということだ。要は、それぞれの分野に於いて、法則に忠実なのかどうかの問題なのだ。医療なら生態の法則に基づいて治療が行われるし、学校の勉強なら入試問題などの攻略法を知っていたほうが有利なのは言うまでもない。会社なら組織のルールに従っていたほうがいい。当然ながら、癖がそれらの法則に反したものなら直したほうが良い。

では、今度はこれを「生き方」に当てはめてみよう。

全ては平穏無事、まっすぐに生きられればそれが一番なのだが、思い通りに行かないのが人生だ。だから、多少なりとも曲がった人生になるのも仕方なかろう。

ここで重要なのは、無理をしないということだ。

例えば、「そりゃあ、俺だって真っ直ぐに行きたかったさ」と、理想と現実があまりにも違いすぎていて、曲がり曲がった生き方をしてきた自分自身がいたとする。だから、「このままじゃ恥ずかしい。せめてものダメ人間に見られないように努力しないといけない」となるのだが、こういうところに落とし穴がある。

曲なれば則ち全し」とは老子が言っていたことだが、これは「曲がっているから真っ直ぐにもなれる」ということであり、同時に「無理に矯正しようとするな」という意味も含まれている。そういえば、曲がって格好悪く見える樹木も、形を変えることなく曲がったなりに育つものである。

他人の評価は、どこで変わるか判らない。

今まで曲がってると思っていたことが実は真っ直ぐだったりすることがあるし、反対に、真っ直ぐに生きてきたつもりが曲がった人生だったと気づく場合もある。世間は無常である。だから、そんな無常なものに振り回されてはならん訳だ。

そして、「生き方」という分野に於いても、それを決めている法則は何なのかということである。世間は無常な訳だから、そこに上記の法則は存在しない。本当は世間なんぞよりもずっと大きなものにあるのだろう。だが、それは人間の知見ごときでは絶対に理解出来ない。従って、「曲がっている」とか「真っ直ぐである」とかいう定義づけも判りはしないのだ。

ただ、我々でもひとつだけ自覚出来ることは、どのように思慮しようが、そう思っている自分自身が在るということだけである。

だから、曲がっていると思うなら、曲がっているなりに努力すればいいと思うね。真っ直ぐでは見れなかった物事の側面まで見えるかも知れない。

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