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(本好きな)かめのあゆみ

かしこいカシオペイアになってモモを手助けしたい。

内田樹さん編の

この本。

 

執筆陣とタイトルは次のとおり。

 

序論 文明史的スケールの問題を前にした未来予測/内田樹

ホモ・サピエンス史から考える人口動態と種の生存戦略/池田清彦

頭脳資本主義の到来――AI時代における少子化よりも深刻な問題/井上智洋

日本の“人口減少”の実相と、その先の希望――シンプルな統計数字により、「空気」の支配を脱する/藻谷浩介

人口減少がもたらすモラル大転換の時代/平川克美

縮小社会は楽しくなんかない/ブレイディみかこ

武士よさらば--―あったかくてぐちゃぐちゃに、街をイジル/隈研吾

若い女性に好まれない自治体は滅びる--―「文化による社会包摂」のすすめ/平田オリザ

都市と地方をかきまぜ、「関係人口」を創出する/高橋博之

少子化をめぐる世論の背景にある「経営者目線」/小田嶋隆

「斜陽の日本」の賢い安全保障ビジョン/姜尚中

 

けっこうおのおのの主張の内容やトーンがまちまちで

寄せ集め感がなくはない。

 

まあでもそれが多様な意見っていうことなのかな。

 

このなかでぼくが特に印象に残っているのは冒頭の内田樹さんの寄稿。

 

人口減少に限らず

日本の無責任体質のメカニズムが実によくわかる。

 

失敗した時や最悪の事態のことを考えて準備をすることは敗北主義であり

敗北主義が敗北を呼ぶ

っていう考え方が刷り込まれている。

 

ちょっとここらでいったん落ち着いて

現状をしっかり検証しませんか

っていう態度は嫌われるんですよね。

 

せっかくいいところなのに水を差さないでくれる?

って。

 

関係者自身はこのままいくと破綻するってわかっているのに

自分が関係しているときに何らかの手を打とうとすると

自分が関係するまでのことも含めてまるで全部自分の責任みたいに扱われてしまうのを懸念して

できるだけ都合の悪いことはみないようにして次の者に渡す。

 

次の者も同じようにする。

 

それでいよいよどうしようもなくなったときには

まるでそれが人為的にはどうしようもない天災であるかのように諦める。

 

世間も

ここまできてたらもう仕方ないよね

とそれを許す。

 

でそんなふうに

無責任体質のメカニズムがわかったところでこれもまたどうしようもない。

 

もうすでにどうしようもない。

 

時すでに遅し。

 

ってこんなふうに思考停止するのがよくないんだろうな。

 

ぼくは慎重派なのでいつも失敗したときや最悪の事態を想定して物事を進める。

 

でもそれはネガティブなのではなくて前を向くために必要なことだと思っている。

 

失敗のことを考えずにいけいけどんどんっていうタイプのひとのことをぼくは信用できない。

 

楽しそうなのでうらやましくなるときはあるんだけどね。

 

人口減少だってぼくはプラスに考えているっていうか

人口減少が直接自分に何か影響を与えることはないんじゃないかな。

 

もちろん間接的には影響があるんだろうけど。

 

どんな状況になっても適応してその環境で楽しく生きていきたい。

 

あと

こどもを産まない

結婚しない

っていうことについても

結婚させてこどもを産ませれば人口減少が食い止められる

っていう発想は気に食わない。

 

結婚するのも自由

こどもを産むのも自由。

 

政策的に

結婚させる

こどもを産ませる

っていうことに知恵を絞るのは間違っていると思う。

 

結婚したいのにできない

こどもを産みたいのに産めない

っていうひとだけをケアすればいい。

 

ただし

結婚したいのにできないのも

こどもを産みたいのに産めないっていうのも

理由はひととおりだけではなく多様なので

そこは注意しておかないといけない。

 

それからちょっと突飛な気がしたけど

現在の産業や労働者を守ろうとして

AIによる産業革命に乗り遅れると

一気に後進国になって搾取される側に回る

っていう警鐘にはなんともいえない不安と恐怖を感じる。

 

隣国の脅威

なんてものよりも切実に恐ろしい気がする。

 

それから

地方と都会のひとを有機的に結び付けることによって

食の安全性や安定性を高めるとか

災害時の避難場所を確保するとかいうのも

それができるひととそうでないひとの差が出ると思った。

 

人口減少を食い止めるための施策のあれこれは

どうもまあ的外れのような気がして仕方がないんだけど

これは現状に満足しているから言える無責任な感想なのだろうか。

 

 

 

--人口減少社会の未来学--

内田樹 編

文学部唯野教授こと筒井康隆さんが

1990年5月14日(なんと約30年も前!)に行った講演に

このたび自ら大幅な加筆修正を加えて再構成したのが本書。

 

まあ正直

ぼくレベルではピンときませんでした。

 

語り口はすごく平易でわかりやすいんですが

これでハイデガーの思想がわかるかというと

ぼくにはわからなかったなあ。

 

もともとハイデガーの思想についての知識があるひとには

愉しく読めるのかもしれないなあとは思う。

 

印象に残った事のひとつは

先駆的了解と先駆的決意性の部分。

 

かならず誰にでもあり

他の誰かに代わりに経験してもらうことができず

また経験した後にそれを確かめることができないもの。

 

それは自らの死。

 

生きながらにして他の誰でもない自らの死を了解し

死んだ後にもし自分が生きていたら後悔するようなことはしない

という決意。

 

つまり死後の時点から先駆していまを見つめて行動していくということ。

 

メメント・モリ

とか

死ぬときに後悔しないようにとか

そういうのは以前から言われているので

たしかにそうなんだけど

生れてから死ぬまでの期間を

トータルとしてひとつの作品である捉えたときに

自分にとってそれがどんな作品であってほしいか

っていうのは思い描いておきたいよね。

 

かならずしもいつもハッピーである必要もないし

ハッピーエンドである必要もない。

 

そういう作品の方がむしろいい味が出てたりする。

 

 

 

 

ちょっと脱線してしまった。

 

先駆的了解と先駆的決意性の件は

だけじゃないっていうのが

併録されている

大澤真幸さんの解説でわかった。

 

あることが起こった後に感じるであろうことを

それが起こる前に了解し

いまどう対応するか決意する

という生き方。

 

それは

原発事故であったり

大規模災害であったり。

 

原発事故が起こった後のカタストロフを予見して

原発を止めるっていうのもひとつの考え方だし

それを了解したうえでなお原発を活用するっていうのもひとつの考え方。

 

原発事故が起こった後のことを考えないようにする態度とはまったく違う。

 

もっと簡単な例でいえば

さまざまな締め切り。

 

締め切り後にやっと本気で仕事をはじめることってよくあるけど

その本気を締め切り前に出すのが

先駆的決意性。

 

まあ勝手な解釈だけどそう思いました。

 

 

 

 

 

--文学部唯野教授・最終講義 誰にもわかるハイデガー--

筒井康隆

ノンフィクションの探検ものは久しぶりだ。

 

なぜこれを読んでみようかと思ったかというと

目的地を定めた探検ではなくて

極夜後に見る太陽に何を感じるかという体験を求めた探検だというので

その探検の途中での著者の思索について

いったい何を感じるんだろうと興味が湧いたからだ。

 

極夜っていうのは

緯度が高い地域で起こる

何か月も太陽が昇らずに夜が続く現象のこと。

 

白夜の反対

って感じでいいかな。

 

舞台は

北緯78度から79度

グリーンランドの

シオラパルクから

メーハン氷河を超え

氷床

ツンドラ地帯

を抜けるルート。

 

この本を読んでいる2週間足らず

ぼくは作者の探検を追体験していた。

 

マイナス40度

昼も太陽が昇らない暗闇の毎日

ブリザード。

 

プラス20数度の快適な部屋での

想像のなかでの探検なのだが

毎日の仕事を終えてから本のなかで探検をするのが待ち遠しかった。

 

それくらい刺激的だった。

 

もともと著者のこの探検の目的が

極夜の世界に行けば、真の闇を経験し、本物の太陽を見られるのではないか

というものだったので

その探検の途中では自ずと

哲学的な思索が繰り返されるのだろう

たとえば比叡山の千日回峰行のように

と期待していたのだが

案外

不運に見舞われれば汚いことばで激しく罵ったり

美女のことを妄想したりと

崇高な思索からは程遠い

身近というか人間らしいというか正直というか

そういう場面がけっこうあった。

 

冒頭の

妻の出産の場面がとても良くて

がんばれって励ましてるのに

「お願い…。二酸化炭素をこっちに向けて吐きかけないで…」

って言われるところは何かを思い出して身につまされた。

 

赤ん坊が生まれ出る場面からは

この探検の暗示しているところが想像できて

それはやはりその通りだったのだが

そんな予測をものともしない切実さがこの本にはあった。

 

探検そのものもすごく良くて

著者が見た空や太陽や月や星や雪や氷や海や風や空気の冷たさを

ぼくも見たいと思ったし感じたいと思ったし

だけど実際にそれを見たり感じたりするためには

ものすごい準備と危険が必要だっていうのもわかって

だから想像の中だけに留めておく。

 

読みながら思ったのは

探検はこんなふうに危険を冒してどこかに行かなくても

毎日の生活を探検だと思えば探検になると思うし

実際に毎日の生活のあちこちに危険は転がってるし

未知なるものも感動的なこともたくさんあるんだから

それを見たり感じたりする感性だけ常に意識しておけば

毎日の生活が楽しく刺激的なものになるんだよな

っていうこと。

 

現代の日本は

漫然と暮らそうと思えば暮らせてしまうので

そこは自覚的に意識的に

毎日を探検するように生きたいなと思った。

 

人類史上初めて

みたいな経験は無理かもしれないけど

自分史上初めて

という経験はまだまだチャンスがある。

 

だってぼくの知っていることや経験したことなんて

まだすべての可能性のなかのほんの少しでしかないんだから。

 

 

 

 

--極夜行--

角幡 唯介