文学部唯野教授・最終講義 誰にもわかるハイデガー | (本好きな)かめのあゆみ

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文学部唯野教授こと筒井康隆さんが

1990年5月14日(なんと約30年も前!)に行った講演に

このたび自ら大幅な加筆修正を加えて再構成したのが本書。

 

まあ正直

ぼくレベルではピンときませんでした。

 

語り口はすごく平易でわかりやすいんですが

これでハイデガーの思想がわかるかというと

ぼくにはわからなかったなあ。

 

もともとハイデガーの思想についての知識があるひとには

愉しく読めるのかもしれないなあとは思う。

 

印象に残った事のひとつは

先駆的了解と先駆的決意性の部分。

 

かならず誰にでもあり

他の誰かに代わりに経験してもらうことができず

また経験した後にそれを確かめることができないもの。

 

それは自らの死。

 

生きながらにして他の誰でもない自らの死を了解し

死んだ後にもし自分が生きていたら後悔するようなことはしない

という決意。

 

つまり死後の時点から先駆していまを見つめて行動していくということ。

 

メメント・モリ

とか

死ぬときに後悔しないようにとか

そういうのは以前から言われているので

たしかにそうなんだけど

生れてから死ぬまでの期間を

トータルとしてひとつの作品である捉えたときに

自分にとってそれがどんな作品であってほしいか

っていうのは思い描いておきたいよね。

 

かならずしもいつもハッピーである必要もないし

ハッピーエンドである必要もない。

 

そういう作品の方がむしろいい味が出てたりする。

 

 

 

 

ちょっと脱線してしまった。

 

先駆的了解と先駆的決意性の件は

だけじゃないっていうのが

併録されている

大澤真幸さんの解説でわかった。

 

あることが起こった後に感じるであろうことを

それが起こる前に了解し

いまどう対応するか決意する

という生き方。

 

それは

原発事故であったり

大規模災害であったり。

 

原発事故が起こった後のカタストロフを予見して

原発を止めるっていうのもひとつの考え方だし

それを了解したうえでなお原発を活用するっていうのもひとつの考え方。

 

原発事故が起こった後のことを考えないようにする態度とはまったく違う。

 

もっと簡単な例でいえば

さまざまな締め切り。

 

締め切り後にやっと本気で仕事をはじめることってよくあるけど

その本気を締め切り前に出すのが

先駆的決意性。

 

まあ勝手な解釈だけどそう思いました。

 

 

 

 

 

--文学部唯野教授・最終講義 誰にもわかるハイデガー--

筒井康隆