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(本好きな)かめのあゆみ

かしこいカシオペイアになってモモを手助けしたい。

短篇15話。

1話平均20ページもない。

でもさくっとは読めない。

密度が濃い。

 

どの作品にも謎めいた生物が絡む。

不穏な空気感と不可解な世界観があいまって

まるでエドワード・ゴーリー作品。

 

「群像」2013年4月号に初出の「うらぎゅう」から

「文學界」2018年1月号に初出の「家グモ」まで

実に5年にわたる作者の力量の変化まで見て取れる。

 

始めのころは

たしかにまとまっているがどことなくものたりない部分もあったのだが

うしろに進むにつれて迫力が増してきた。

 

圧巻は最後の「家グモ」。

 

おおなるほど。

そんなデリケートなところまで表現するか。

 

家グモのいる家は栄えるという迷信。

 

集合住宅の隣り合った部屋の2組の夫婦。

こどものいる夫婦とこどものいない夫婦。

それぞれの夫と妻の温度差。

母と娘の隔絶。

こどものいない女性と間もなくこどもを産む同期の女性。

 

それぞれのひとびとがそれぞれにそれほどおかしくない生活をしているのだが

そこから生じる微妙なずれが決定的に他者への割り切れない感情を生む。

 

ああそれわかる。

 

産休育休に入っている女性の悩み

産休育休に入っている女性のいる職場にいる女性の悩み

こどものいない夫婦の隣の部屋でこどもの出す音に気を使う女性の悩み

こどものいる夫婦の隣の部屋でこどもが嫌いな夫の機嫌に気を使う女性の悩み。

 

その立場ならそうなるよね

でもそうじゃない立場ならこうなるよね

どっちも間違ってないんだよ

でもね

想像力の豊かな方がいつもいたたまれなくなるんだよ。

 

そのいたたまれないという気持ちを感じてさらにいたたまれなくなるんだよ。

 

ああもう無理

どうしようもない。

 

でもぼくはそのどうしようもなさも理解できるくらいに繊細。

 

ってそういう気持ちにさせてくれる絶妙な作品。

 

日本では余程の読書好きのひとにしか読まれなさそうだけど

こういう作品は世界をフィールドにすると価値が認められるんだろうなあ。

 

 

 

 

--庭--

小山田浩子

自己啓発本は読まないようにしているのだが

きっかけがあって内容を知るために読んでみた。

 

自己啓発本を読まないのは

別に自己啓発を否定しているわけではなくて

ある程度一巡してもう新しい発見を得られないからっていうことです。

 

読んでみたこの本も

やはり新しい発見は得られませんでした。

 

っていうか

NHKの100分de名著でアドラー「人生の意味の心理学」の回も観たし

香里奈さんのドラマも観たので

もうこの本のエッセンスは充分ぼくに入っていたのでした。

 

とはいえ

自己啓発の源流

とも言われているくらいだから

それ以前にもいろいろとアドラーさんの考え方に影響を受けた言説を

目にしたり耳できいたりしてきたのだろうと思う。

 

岸見一郎さんの人柄がそもそもいいですよね。

 

アドラーの考え方を

心理学として捉えるのではなく

哲学として捉えるところ

それから

ソクラテスやプラトンに連なるギリシャ哲学の系譜として捉えるところが

ぼくにもしっくりときました。

 

青年と哲人の対話形式にしているところも

プラトンぽくてよかったです。

 

実はこれを読みながら

荻中ユウさんの考え方はこれと似ているな

とも思ったのです。

 

 

 

 

 

 

以下はメモです。

 

優越性の追求(他者と比べての優越ではなく、自己のなかのよりよくなろうと前進する意思)

 

健全な劣等感とは、他者との比較のなかで生まれるのではなく、「理想の自分」との比較から生まれるもの。

 

原因論ではなく目的論。

 

勇気づけ。

 

劣等感と劣等コンプレックス。

 

見かけの因果律(本来はなんの因果関係もないところに、あたかも重大な因果関係があるかのように自らを説明し、納得させてしまうこと。~~だから~~できない。)

 

権力争い(力の誇示、相手を屈服させようとする争い)だと察知したら、いち早く争いから降りる(リアクションを返さない)

 

行動面の目標「自立すること」「社会と調和して暮らせること」

行動面を支える心理面の目標「わたしには能力がある、という意識」「人々はわたしの仲間である、という意識」

 

「人生のタスク」とは、「仕事のタスク」「交友のタスク」「愛のタスク」で、ひとりの個人が社会的な存在として生きていこうとするとき、直面せざるをえない対人関係。

 

「人生の嘘」とは、さまざまな口実を設けて人生のタスクを回避しようとする事態。

 

「課題の分離」。誰の課題かを見分ける方法はシンプル。「その選択によってもたらされる結末を最終的に引き受けるのは誰か?」

 

他者からの期待(承認欲求とか、大切に扱われたいとか、独占したいとか)があって、その期待が満たされなかったとき、その他者は大きく失望し、ひどい侮辱を受けたと感じ、憤慨する。

 

他者を仲間だとみなし、そこに「自分の居場所がある」と感じられることを、共同体感覚という。

 

もしもあなたが異を唱えることによって崩れてしまう程度の関係なら、そんな関係など最初から結ぶ必要などない。関係が壊れることだけを怖れて生きるのは、他者のために生きる不自由な生き方です。

 

(上下関係であるとしても)意識の上で対等であること、そして主張すべきは堂々と主張することが大切。

 

「自己受容」「他者信頼」「他者貢献」

 

幸福とは貢献感である。

 

自己受容は自己肯定ではない(自己受容は、交換不能なこのわたしをありのままに受け入れること)

 

オープンなタイプのひとは他者信頼(他者に対して裏切りを怖れず無条件に信頼を寄せる)から他者との関係をスタートし、ぼくなんかは他者懐疑とまではいかないけど、ニュートラルなところから他者との関係をスタートさせる。

 

懐疑からは深い関係は築けない。

 

他者信頼によって裏切られても、裏切りは他者の問題。裏切った者との関係を続けるのも断ち切るのも自己の課題。

 

他者から注目を集めるための「安直な優位性の追求」(こどもが非行に走るのにはこれがある。家族などの気をひくために非行に走る。)

 

アドラーは「人間の悩みは、すべて対人関係の悩みである」といっていますが、どうすれば良い対人関係を築けるか知らないと、他の人の期待を満たそうとしたり、他の人を傷つけまいとして、主張したいことがあっても伝えることができず、自分が本当にしたいことを断念してしまうことがあります。そのような人は、たしかにまわりの人からの受けはよく、彼らを嫌う人は少ないかもしれませんが、その代わり、自分の人生を生きることができないことになるのです。

 

「成功できない」のではなく、「成功したくない」

 

単純に一歩前に踏み出すのが怖い。また、現実的な努力をしたくない。いま享受している楽しみ、たとえば遊びや趣味の時間、を犠牲にしてまで、変わりたくない。つまり、ライフスタイルを変える勇気を持ち合わせていない。多少の不満や不自由があったとしても、いまのままでいたほうが楽なのです。

 

アドラーは相手を束縛することを認めません。相手が幸せそうにしていたら、その姿を素直に祝福することができる。それが愛なのです。互いを束縛し合うような関係は、やがて破綻してしまうでしょう。

 

「この人と一緒にいると、とても自由に振る舞える」と思えたとき、愛を実感することができます。

 

 

 

 

 

--嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え--

岸見一郎

古賀史健

もう20年以上も前に流行った本をいまごろ初めて読んでみた。

 

親しいひとの死の迎え方について何か重要なことが書かれているのではないかと思って。

 

まあいいことは書いてあるような気がするけど

残念ながらいまのぼくの胸を打つことはなかった。

 

この本はかなり流行ったと思うから

以後

この本の内容に影響を受けた作品はたくさん世に出ているはずで

ぼくもそれらに触れる機会は何度もあったと思う。

 

だから特にあたらしい発想とか考え方を見つけることができなかったんだと思う。

 

それにしても贅沢な死の迎え方だ。

 

もちろん本人は苦しいときもあっただろうが

訪ねてくるひとが何人もいて

自分を愛してくれているのがはっきりとわかっているひとが何人もいて

そのひとたちと死までの何か月間かを過ごせるというのは

誰でも簡単にできることじゃない。

 

もともと資産があり

しかもこの本を出版するという前提で前払い金も手に入れ

医療・介護スタッフに囲まれながらの死への道行き。

 

20年以上経った現在の日本では

介護難民とかなんとか

ぎりぎりのところで死を迎えるひとがたくさんいる。

 

もちろん20年前のアメリカでだってそうだったんだろう。

 

ってちょっと皮肉なことばかり書いてきたけど

いいこともたくさん書いてあった。

 

目新しくないけどそれらは

訳者のあとがきにていねいにピックアップされているので

それで振り返ればよくわかる。

 

それにしても。

 

2020年も間近の日本。

 

どんなふうに死を迎えるのがオーソドックスになっているのだろう。

 

理想は

ソクラテスが死ぬときみたいに

好きなひとたちに囲まれて

お別れの話をしながら

毒をくいっとあおって

すぐに旅立つ

っていうのだけど

毒で死ぬっていうのが難しいし

好きなひとたちに囲まれるっていうのも難しそう。

 

それができるように生きるのが大事なのかもしれないけど

よく死ぬために生きるっていうのもなんか違う気がする。

 

よく生きてたら

けっかとして

よい死を迎えられた

っていうのがいいな。

 

でもそれも難しいなら

しずかにひっそりとさわぎたてずに死にたいな。

 

ひとつだけ書き留めておくとしたら

すきなひとと語り合うことがいちばんしあわせなことだから

生きているあいだはなによりもそれをだいじにしたい

っていうのをあらためて確認したってことかな。

 

 

 

 

 

--モリー先生との火曜日--

ミッチ・アルボム

別宮貞徳 訳