(本好きな)かめのあゆみ -24ページ目

(本好きな)かめのあゆみ

かしこいカシオペイアになってモモを手助けしたい。

女性が世間からみた女性性を意図的に纏うという行為は

武士が戦で甲冑を纏うのに似ている。

 

ファッションや化粧のあれこれにうんざりしつつも

世間の目をまったく無視して

無頓着になることにも踏み切れず

また

世間で流行っているライフスタイルに興味がないかというと

興味はやはりあるのであって

でもそれを自分がやるのには抵抗があるという

この複雑な心理の動き。

 

でも

でも

でも

が繰り返される葛藤。

 

そういうのが男性にはないのかというと

けっしてそういうわけではないのだが

それでもこの本を読みながら

女性ってたいへんだなあ

と思うところをみると

こういう面では女性の方がたいへんなんだろう。

 

特に

ジェンダーの問題とかに気付いてしまった女性は

好奇心などの素直な感情

世間の勝手な期待に抗いたい反骨心

との板挟みになってねじれてこじれて

自分がほんとうはどうしたいのかがわからなくなりそう。

 

ぼくがもし女性だったら

ジェーン・スーさんと同じように難しい思考のコースにハマりそうなので

共感といっていいのかどうかわからないが

身につまされる話だった。

 

シニカルっていうのは

ひとを生きづらくさせるところがあるよね。

 

ピンクの問題もそうなんだけど

女性だからといって一方的にピンクを押し付けられるのはまっぴらだけど

ピンクそのものが好きなんだったらほかの色とおなじように自由にピンクを使いたい

っていうのはそのとおりで

だからピンクの問題は女性の生きづらさの象徴になる。

 

ピンクを否定するのではなく

ピンクの使われ方を吟味せよ

っていうこと。

 

ぼくがこの本の中で特に印象に残ったのは

夢見る少女はリアリスト

宝塚を観に行った

の2つ。

 

シンデレラの物語の解釈と

宝塚の精神

について考えさせられた。

 

たしかにシンデレラの物語は

どれだけ現代的なアレンジを試みたとしても

あたかも

女性のしあわせはだれをパートナーにするかによって決定される

みたいなことになってしまう。

 

だって王子様と結ばれるのがゴールなのだから。

 

シンデレラの物語で

王子様を無視して自分のしあわせを求める

っていう構成にするのは至難の業だと思う。

 

あまりにもアヴァンギャルドになり過ぎそう。

 

宝塚の話は

いかに女性が世の男性に辟易とさせられているかがわかる。

 

宝塚ファンの女性たちは

現実には存在しえない理想の男性を求めて

劇場に夢を観に行くのだ。

 

ここの部分には男性側にも言い分があって

宝塚の男役のひとみたいに生きる男性はきっと生活力がないと思うよ

それでもかまわないの?

って尋ねたくなるんだけど

それはおまえの努力が足りないからだ

って言われるのかな。

 

まあ男性も理想の女性を求めて

現実の女性には求めるべくもない女性像を

各種の作品に残しているわけなので

まあ夢を見る分にはお互い様

ってことなんだろう。

 

ところで

シニカルで文化批評的な女性は

一緒に会話したり仕事したりするのにはとても愉快なんだけど

一緒に暮らすとなるとちょっと面倒臭そうなので

やっぱりシンデレラの物語に素直に感情移入できたり

悩まずにピンクや流行のファッションや化粧を楽しめたりヨガを習ったり

できる女性の方が安らげるような気がする。

 

そういう意味では

シニカルで文化批評的なぼくも

一緒に暮らすにはちょっと面倒臭い人間ということになるだろうから

それはそれで残念な気持ち。

 

素直なひとに

ぼくはなりたい。

 

 

 

 

--女の甲冑、着たり脱いだり 毎日が戦なり--

ジェーン・スー

すごいすごいとは聞いていたが

ほんとうにすごかった。

 

圧倒的なスケール。

 

壮大な構想と構成。

 

そしてアイデア。

 

中国の作家の作品を読む機会はほとんどなくて

記憶に残っている作品といえば

李白とか杜甫とか

荘子とか老子とか孔子とか

そういう2千年前クラスのものばかりなのだが

現代の中国のSFはこんなことになっているのか。

 

といってもまだこの1冊しか読んでいないので

中国の全体的な水準や傾向はわからないんだけど

とにかくすごかった。

 

それに現代の

っていっても

連載は2006年っていうことなので

もう13年も前なんだよな。

 

それなのに内容が陳腐化していない

というより

さらにリアリティを増している

と言ってもよい感じ。

 

早川書房とはいえ

そもそもSFと知らずに読み始めたので

冒頭の迫力からやられた。

 

中国でこんなこと書いても大丈夫なのか

って思いながら読んでいた。

 

文化大革命っていうのがあったのは知識としては知っていたが

この小説に書かれているようなことなのか。

 

もちろんフィクションなのはわかっているが

ある程度似たような事実があるような気もして

だとするとなかなかひどいことがあったもんだ。

 

しかもそれはそれほど遠い昔のことではない。

 

そんなことから始まって

政治的思想的な話なのかと思いきや

どんどんミステリアスな展開になっていく。

 

三体問題を扱ったVRゲーム

三体

のアイデアもすごく興味深くておもしろい。

 

こんなゲーム

ついていけるひとはほとんどいないだろうけど

インテリの知識欲は相当刺激されるだろうなあ。

 

射撃手と農場主

の寓話もすごくよくできている。

 

まことしやか。

 

それから智子。

 

ともこ

ではなく

ちし

って読むんだと思うけど

フリガナ的には

ソフォン

ってなっている。

 

えーっ

そういうことなの?!

ってびっくりするアイデア。

 

すごい。

 

三次元には広大な二次元が内包されている

ってほんとうにそうなの?

 

それがああなってこうなってそんなことになるの?

 

すごいよ。

 

アイデアだけで突っ走るわけではなくて

情景や心理の描写もていねいでうまい。

 

郷愁も誘う。

 

ラストも良かった。

 

SFっていうのはこういうものだと思うけど

ひさしぶりにでかいものを読んだ快感があった。

 

たぶんある程度の物理学や天文学の知識がないと

ちんぷんかんぷんになるところもあると思うけど

ぼくレベルのあいまいな知識でもぎりぎり想像力で補えたと思う。

 

ぜんぜん勘違いしてるかもしれないけど。

 

あと

中国の小説は

もっと不自由なのかなと思っていたけど

案外きわどいことも書けるんだなというのも感想として持った。

 

まあ政治的な事情がわかっていないので

あくまでも感覚的な話だけど。

 

それにしても

基礎科学の研究はほんとうにだいじだな。

 

あともうひとつ。

 

文潔のとりまきの女の子はいったい何者だったのだろう?

 

 

 

 

--三体--

劉慈欣

訳 大森望、光吉さくら、ワン・チャイ

又吉直樹さんの

空想や想像や回想や記憶の入り混じった

日記というか随筆というかエッセイというかショートショートというか。

 

太宰の東京八景と富嶽百景が合わさったようなタイトル。

 

世間に流通する言葉をそのまま使うのではなく

正直に素朴に

自分の頭できちんと考えて言葉を選んでいる感じがとても好き。

 

子ども時代の話

家族の話

駆け出し芸人時代の話。

 

細部をよく記憶しているなあと思う。

 

読みながら

ぼくにもこういうことがあったような気がするけど

どんなふうに表現できるかなあ

と想像してみたけど

そもそも記憶に残っていないことが多いし

残っていたとしてもこんなふうにはなかなか書けないと思う。

 

でもなんとか記憶の断片でも引っ張り出して

自分の過去の記憶とそこからつながる空想を合わせてみたい。

 

この東京百景に書かれている内容は

その後の又吉さんの小説に描かれていることも多いし

テレビや講演会での話の素材になっていることも多い。

 

こういう喩え方は雑かもしれないけど

この東京百景じたいが

又吉さんのネタ帳みたいだ。

 

たとえば

76 池尻大橋の小さな部屋

劇場

の基本的な設定を支えている。

 

ぼくが

劇場

ですごく好きになった

沙希ちゃん

みたいなひとがいたんだ。

 

ここから話を膨らませて

劇場

になったんじゃないかと思うのは浅はかな考えかな。

 

ユーモラスなときもあれば

突き放したようなときもあり

けっしてわかりやすくはない

多面性を持つ人間というものを

低めの緊張感で表現してくれているので

又吉さんをますます身近に感じることができる。

 

なんといっても

考え過ぎというか

自意識過剰というか

勝手な想像が膨らみすぎて

かえって物事をややこしくしたり

身動きがとれなくなったりする

そういう性質に

ああぼくもそういうところあるなあ

と仲間意識を覚えるのが気持ちいいのだった。

 

 

 

 

--東京百景--

又吉直樹