女の甲冑、着たり脱いだり 毎日が戦なり ジェーン・スー | (本好きな)かめのあゆみ

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かしこいカシオペイアになってモモを手助けしたい。

女性が世間からみた女性性を意図的に纏うという行為は

武士が戦で甲冑を纏うのに似ている。

 

ファッションや化粧のあれこれにうんざりしつつも

世間の目をまったく無視して

無頓着になることにも踏み切れず

また

世間で流行っているライフスタイルに興味がないかというと

興味はやはりあるのであって

でもそれを自分がやるのには抵抗があるという

この複雑な心理の動き。

 

でも

でも

でも

が繰り返される葛藤。

 

そういうのが男性にはないのかというと

けっしてそういうわけではないのだが

それでもこの本を読みながら

女性ってたいへんだなあ

と思うところをみると

こういう面では女性の方がたいへんなんだろう。

 

特に

ジェンダーの問題とかに気付いてしまった女性は

好奇心などの素直な感情

世間の勝手な期待に抗いたい反骨心

との板挟みになってねじれてこじれて

自分がほんとうはどうしたいのかがわからなくなりそう。

 

ぼくがもし女性だったら

ジェーン・スーさんと同じように難しい思考のコースにハマりそうなので

共感といっていいのかどうかわからないが

身につまされる話だった。

 

シニカルっていうのは

ひとを生きづらくさせるところがあるよね。

 

ピンクの問題もそうなんだけど

女性だからといって一方的にピンクを押し付けられるのはまっぴらだけど

ピンクそのものが好きなんだったらほかの色とおなじように自由にピンクを使いたい

っていうのはそのとおりで

だからピンクの問題は女性の生きづらさの象徴になる。

 

ピンクを否定するのではなく

ピンクの使われ方を吟味せよ

っていうこと。

 

ぼくがこの本の中で特に印象に残ったのは

夢見る少女はリアリスト

宝塚を観に行った

の2つ。

 

シンデレラの物語の解釈と

宝塚の精神

について考えさせられた。

 

たしかにシンデレラの物語は

どれだけ現代的なアレンジを試みたとしても

あたかも

女性のしあわせはだれをパートナーにするかによって決定される

みたいなことになってしまう。

 

だって王子様と結ばれるのがゴールなのだから。

 

シンデレラの物語で

王子様を無視して自分のしあわせを求める

っていう構成にするのは至難の業だと思う。

 

あまりにもアヴァンギャルドになり過ぎそう。

 

宝塚の話は

いかに女性が世の男性に辟易とさせられているかがわかる。

 

宝塚ファンの女性たちは

現実には存在しえない理想の男性を求めて

劇場に夢を観に行くのだ。

 

ここの部分には男性側にも言い分があって

宝塚の男役のひとみたいに生きる男性はきっと生活力がないと思うよ

それでもかまわないの?

って尋ねたくなるんだけど

それはおまえの努力が足りないからだ

って言われるのかな。

 

まあ男性も理想の女性を求めて

現実の女性には求めるべくもない女性像を

各種の作品に残しているわけなので

まあ夢を見る分にはお互い様

ってことなんだろう。

 

ところで

シニカルで文化批評的な女性は

一緒に会話したり仕事したりするのにはとても愉快なんだけど

一緒に暮らすとなるとちょっと面倒臭そうなので

やっぱりシンデレラの物語に素直に感情移入できたり

悩まずにピンクや流行のファッションや化粧を楽しめたりヨガを習ったり

できる女性の方が安らげるような気がする。

 

そういう意味では

シニカルで文化批評的なぼくも

一緒に暮らすにはちょっと面倒臭い人間ということになるだろうから

それはそれで残念な気持ち。

 

素直なひとに

ぼくはなりたい。

 

 

 

 

--女の甲冑、着たり脱いだり 毎日が戦なり--

ジェーン・スー