映画「シン・ウルトラマン」は庵野秀明監督実写作品「巨神兵、東京に現る」の完全版か?(ネタバレあり | 作家・土居豊の批評 その他の文章

映画「シン・ウルトラマン」は庵野秀明監督実写作品「巨神兵、東京に現る」の完全版か?(ネタバレあり

映画「シン・ウルトラマン」は、庵野秀明監督実写作品「巨神兵、東京に現る」の完全版か?

(ネタバレあり)

 

 

 

 

 

 

以下、映画のネタバレがあります

 

 

 

 

 

 

 

まず、仮説として、

【「巨神兵 東京に現る」が、「シン・ウルトラマン」のゼットンで具現化した】

と考えておく。

 

その上で、「シン・ウルトラマン」の世界観としては、

1)ウルトラマンとヒカリの星、は唯一神

2)ザラブとメフィラスは、多神教の神々

3)ウルトラマンと人間の融合、ベータシステムという「神の火」の扱いは、ギリシャ神話のプロメテウス

このような、多元世界としての地球とマルチバース宇宙を想定してみたい。

この映画「シン・ウルトラマン」は、前作「シン・ゴジラ」の継承というよりは、旧ウルトラマンとウルトラQの継承であり、庵野秀明作品の新劇場版エヴァ連作の世界観に近いものがある。

 

(1)異星人との恋愛関係?

シン・ウルトラマン(以下、シンマンと略す)と、早見隊員(旧作でのフジ隊員に該当)との関係は、異星人同士の恋愛関係、あるいは疑似恋愛、といえる。そのことは、映画パンフレット中のインタビューにも書かれている。

そこで、別次元・別宇宙の存在であるシンマンと、人類の女性がどうやって恋愛感情を表現できるだろう?

本作では、可能な限りの接触を両者が試みている。シンマンの側からは、匂いの把握、による擬似セックスの試みである。一方、浅見隊員側からは、「尻を叩く」接触による、「男性を奮い立たせる」行為が、女性側からのセックスの試みとなっている。

冒頭の仮説により、シンマン=人神、だとすると、早見はマグダラのマリアに擬されていると考えることも可能だ。

ただ、新約聖書のイエスの場合と異なり、別次元・別宇宙の存在であるシンマンを、浅見はどうやって愛するだろうか?

本作では、愛していても、物理的に性器を重ねることが不可能な相手に対し、可能な限り接近を試みる描写がなされている、と考えよう。

シンマンの方からは、浅見の「匂い」を把握することで、匂いと共にそのオーラ(のような何か)に接触し、自身の肉体に取り込む、という擬似セックスが行われた。

その一方、浅見の側からは、「尻を叩く」表面的な接触しか成し得ない。これは、より上位概念であるシンマンには可能な別次元の接触が可能だが、悲しいかな、人類にとっては上位概念に対するアプローチの手段は限られている、という非対称性の表れなのだろう。

 

(2)マルチバースSFとしての「シン・ウルトラマン 」

 

マルチバースの中のシンマンは、旧作のように人間の肉体に合体したのではなさそうだ。なぜなら、変身の際に、神永隊員(旧作のハヤタ隊員=ウルトラマン に変身する)を手に包み込んで巨大化している。

これはつまり、シンマンが別宇宙からベータシステムでやって来て、神永隊員の肉体に宿らせたシンマンの意識と、別宇宙のシンマンの肉体を合体させ、マンの完成体になる、というようなことだろう。

だから意識はシンマンの意識で、地球世界での肉体は神永の体を借りており、完全体のシンマンになったあとは、神永の肉体はマルチバース内で保護されている、というようなことだろうと考える。

ゾーフィ(旧作のゾフィーに該当)は、シンマンの命を神永隊員に与えてシンマンの肉体を持ち去った。

ここに登場するゾーフィは、体のラインが二重補助線つきだ。このイメージは、「帰ってきたウルトラマン(以下、帰マンと略す)に類似しているのは、ゾーフィがシンマンの肉体を再生して帰マンを生み出すという伏線になるのだろうか?

旧作のウルトラシリーズと違って、マルチバースの「光の星」(旧作でのひかりのくに、M78星雲)は、原作の宇宙警備隊より、むしろタイムパトロールに近い。恒星間ではなく、多元宇宙の時空間でのトラブル解決を担っているのではないか。

他の外星人も、旧作の星人というより、マルチバースの中で悪企みをする時空盗賊的なイメージだ。

地球人も、マルチバースの中の無数の知的生命の一つということになる。ゾーフィは最後、人類が自分たちのように進化、成長する可能性を認める発言をした。つまりこの物語は、時空的に先行する種族が、地球人類の成長を見守るというパターンなのだ。ハードSFでよくある物語の類型だ。

生物兵器としての禍威獣(怪獣)は単なる武器のような扱いで、物語の本筋は、あくまで生物兵器を使う外星人たちである。そういう意味合いでは、この映画のテーマは旧作ウルトラマンより、旧作ウルトラセブンに近いといえる。

マルチバースの中で独自に進化した外星人たちは、庵野秀明監督の代表作であるアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』(エヴァ、と略す)の「シト」のような、多様な生の可能性を思わせる。

その中の一つの可能性が地球人類、ということなのだろう。つまり、「エヴァ」での人類が、多数のシトの中で最後に残った可能性であるのとは逆だ。この映画での人類は、滅ぼされる運命にあるシトの一種のような存在といえる。その人類を愛したシンマンは、我が身をもって人類が進化できる証拠を示し、光の星による抹殺の危機から救った。

このメタファーは、明らかにキリストを表すだろう。シンマンとは、神の子、人神である。

 

(3)まとめ

 

本作は、環境破壊と国際政治、コロナとウクライナ戦争までを包括し、人類史の先行きを考えさせるハードSFとして成立している。

例えば、日本政府と外星人メフィラスとの密約は、現実の日本国の陥っている対米追従路線の戯画化に見える。

そのような生真面目なSF作品であると同時に、本作は旧ウルトラシリーズへのオマージュでもあり、また、その他のSFアニメやマンガ、特撮作品へのオマージュが散りばめられている。

例えば、神と人間の融合体としてのシン・ウルトラマンは、一種の『デビルマン』のような存在としても考えることができる。

また、作中で言及される生物兵器としての禍威獣は、平成ガメラシリーズでのコンセプトを踏襲する。

最後に、本作の続きを大胆に予想してみたい。

メフィラスが去った後は、もう生物兵器としての禍威獣は現れないはずだ。そこで、次作では主に星人の地球侵略を描く旧作『ウルトラセブン』の時代に、スムーズに移行するのではないか?

また、本作での禍威獣の存在が、環境破壊の象徴という意味あいももつところから、旧作『帰ってきたウルトラマン』へのルートも可能となろう。

結論として、冒頭の仮説とややずれるのだが、庵野秀明は「ウルトラマン」の形を借りて、宮崎駿監督作品『風の谷のナウシカ』における「火の七日間」前史を実写化した、と考えておく。

『風の谷のナウシカ』の庵野版リメイクの端緒なのだ、と言っておこう。

ところで、これは付け足しだが、本作の冒頭、禍威獣から逃げ遅れた少年は、その後、旧作のように少年隊員にならなかった。

この展開の差こそ、庵野版ウルトラシリーズが子ども向きではなく、あくまで大人たちへ向けたSFであるという証明なのではあるまいか。

 

※過去記事

 

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