映画『さよならの朝に約束の花をかざろう』考察追加(ネタバレ)エリアルはレイリアのアナグラム? | 作家・土居豊の批評 その他の文章

映画『さよならの朝に約束の花をかざろう』考察追加(ネタバレ)エリアルはレイリアのアナグラム?

映画『さよならの朝に約束の花をかざろう』考察追加(ネタバレします)エリアルはレイリアのアナグラム?

 

※映画公開時、梅田ブルク7のポスターにあったスタッフのサイン

 

 

 

 

映画『さよならの朝に約束の花をかざろう』を観て以来、あれこれ作品を深堀りしている。色々思いついて、書き加えたことがあるので、まとめておこうと思う。

特に、エリアルはレイリアのアナグラムではないか?というのを思いいたった時は、思わず鳥肌がたった。

果たして、この二人の名前の相似は、偶然だろうか? 意図的なのだろうか?

 

さて、

以下、ネタバレしますので、

まだ観ていない方は、ご注意を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まず、

以前のブログで考察したことの続き。

 

※参考

映画『さよならの朝に約束の花をかざろう』もう一度観てきました(ネタバレします)

https://ameblo.jp/takashihara/entry-12359715764.html

引用

「レイリアはのちにあの長老のようになるのだと想像します。若い日の長老のような女性なのでしょう。」

 

 

この点だが、

レイリアとイオルフの長老が重なるのは、「ほころび」というセリフだ。冒頭の方で、長老がヒビオルにほころびを見つける。一方、ラスト近くでレイリアは、マキアに助けられた時、「ほころび」という。このセリフの回帰が意味するのが、レイリアがのちにイオルフの長老のような存在になるのかも、という可能性だ。

 

もう一つ、前のブログ記事で書いたことの補足だが、

 

※参考

映画『さよならの朝に約束の花をかざろう』もう一度観てきました(ネタバレします)

https://ameblo.jp/takashihara/entry-12359715764.html

引用

「この映画は、百合目線で観ることもできます。

そもそも、マキアと幼馴染の少女レイリアは最初から思い合っていた?男子のクリムはお邪魔だった?」

 

 

レイリアにとって、クリムなどより、また実の娘より、幼馴染のマキアが大切だった描写が2つある。

一つは、救出作戦の時、マキアを逃がすためにお腹の胎児を刺すつもりだったことだ。あの場面で、レイリアはマキアを守るためなら自分の赤ん坊さえ犠牲にする覚悟を示した。

また、娘に会えないならマキアを連れて来て、と叫ぶ場面も、その証拠だ。マキアがいれば、娘に会えなくてもどうにか生きていける、という気持ちの表れだ。この叫びは、ラストの方で、レイリアがマキアの声に応じて城から身を投げる伏線となっている。

 

このように、筆者が前のブログで書いた百合解釈には、それなりの理屈が通っていると自負している。

ところが、一方で、著名人の中にも、この映画が理解できない人がいるという。その代表的な人物は、著名なアニメ演出家の山本寛氏だ。

 

※山本寛公式ブログ

https://lineblog.me/yamamotoyutaka/

 

山本氏が映画「さよ朝」の感想をブログに書いている。一読、思わず笑ってしまった。山本氏は、レイリアがジャンプする場面に批判意見を書いているのだが、彼女がなぜ飛んだか、理解できないという。もし本当にそうなのなら、あの場面で、レイリアが飛ぶ直前にマキアの声が聞こえていたのに気づかなかったのだろう。

あるいは、その声の意味が理解できなかったのかもしれない。

ということは、あの二人の関係性が理解できなかったのか、そこに思い至らなかったということになる。

さらに山本氏は、映画「さよ朝」の最後の場面にも批判的だ。それというのも、マキアがなぜエリアルの最期を看取りに来たか、がわからないという。

もし、本当にわからないなら仕方がない。

だが、映画の最大のクライマックスであるあの場面がわからないアニメ演出家? それはちょっと信じられない。

あの結末は、たとえ二人の想いに感情移入出来ないにしても、映画の主役二人の関係性を考えると、見事な解決だと思うのだ。

もし、山本氏がそこに本当に気づかないのであれば、登場人物の関係性を理解していないことになる。

映画「さよ朝」は、主役級の3人、マキアとレイリアの関係性、マキアとエリアルとの関係性、それらをたどり、気持ちを感じることが醍醐味だといえる。事実、それが伝わるからこそ、多くの観客が涙しているのだろうと思う。

 

さて、

ここからが本題なのだが、

 

エリアルはレイリアのアナグラムなのかもしれない。

 

leria → erial

 

もちろん、綴りが正しいか不明だが、アナグラムになりやすい類似した文字の名前であることは間違いない。

そもそも、エリアルの名前はマキアが名付けた。それも、マキアは赤ん坊にレイリアと名付けようとして、「男の子だろ」と突っ込まれ、慌てて逆読みの名前にした。

ということは、マキアは、赤ん坊にレイリアと付けたかったのだ。それが、茶々を入れられて、とっさに逆読みに近いアナグラムのエリアル、と付けてしまった。

ということは、マキアには、レイリアを独占したい無意識の願望があったのだろうか?

マキアにはレイリアを育てたい願望があった?

マキアがレイリアを唯一、独占できるとしたら、それは生まれ変わったレイリアを母として育てること、という意味なのかもしれない。

最初、赤ん坊を拾った時点のマキアは、それが男児とは気づいていないようだ。となると、赤ん坊を「私のヒビオル」と言ったのも、レイリアを思い浮かべてのことなのかもしれない。

結果的に、エリアルがマキアのヒビオルになり、その後に、マキアがレイリアを救い出して連れて行くのは、最初から必然だった、と考えられる。そう考えると、物語的にしっくりくるのだ。

またもし、エリアルがレイリアのアナグラムなら、物語中、何度も何度もマキアが「エリアルー!」と呼んでいるのが、深層意識では違う意味になるかもしれない。エリアルへの呼びかけと同時に、レイリアへの呼びかけともなるからだ。

マキアが無意識にレイリアに呼びかけていたとすれば、レイリアが長い囚われの生活の中で、ずっとマキアを求め続けたのは、その声が心に届いていたということなのかもしれない。

 

映画「さよならの朝に約束の花をかざろう」は、家族愛、異性愛、百合、友情など、いろんな切り口から感情を激しく揺さぶられる映画だ。

一度目にみた時は、家族に会いたくなった。二度目は、思春期に戻りたくなった。

また、

内容もさることながら、絵の美しさに惚れ込む。空や水の描き方が、ある意味実在の自然以上に美しい。この背景があるからこそ、あの物語にリアリティが生まれるのだ。

 

最後に、

映画『さよならの朝に約束の花をかざろう』は、もう少し経って、ネタバレ可能になった頃に、物語読解のディスカッションをやりたいと思う。この映画は、観た後、他人と語り合いたくてたまらない。あの場面、このキャラ…。

ぜひ、

映画「さよ朝」、読解の会を開催したい。

 

 

※筆者のブログ記事

映画『さよならの朝に約束の花をかざろう』はここ数年に観た中で文句なくベスト1!(ネタバレします)

https://ameblo.jp/takashihara/entry-12357262035.html

 

※映画公開時、梅田ブルク7のポスターにあったスタッフのサイン