映画『さよならの朝に約束の花をかざろう』もう一度観てきました(ネタバレします) | 作家・土居豊の批評 その他の文章

映画『さよならの朝に約束の花をかざろう』もう一度観てきました(ネタバレします)

映画『さよならの朝に約束の花をかざろう』もう一度観てきました(ネタバレします)

 

2回目に観ても、やはり素晴らしい映画でした。ここ数年みたあらゆる映画の中で、文句なしに最高傑作です。

隣に座った男子中学生たちのグループ、始まるまではおしゃべりがうるさかったし、始まってすぐの頃はボリボリとお菓子食べてましたが、クライマックスの後、エンドロールの流れる時には、はっきりと泣いていました。生意気盛りの男子中学生も泣かせる、素晴らしい映画です。

 

 

 

※前のブログ記事

映画『さよならの朝に約束の花をかざろう』はここ数年に観た中で文句なくベスト1!(ネタバレします)

https://ameblo.jp/takashihara/entry-12357262035.html

 

 

以下、ネタバレで映画の内容について、考察します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ネタバレ注意!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まず、

タイトルの「花」について、今回は注意して観てみましたが、なんども現れる花は、場面ごとに種類を変えながら、何度も空に種を飛ばしています。

最初のあの青い花が種子を飛ばす幻想的な場面から、最後、エリアルを看取った後、孫娘がくれたタンポポの綿毛が空に飛ぶ場面まで。

種子が空に飛ぶのは、生命が再び宿るために一旦、天に帰る、そういうイメージです。

空の美しさが、種を蒔いた世界の美しさそのもの。繰り返し生まれる生命そのものの象徴が、あの花と種子なのだと思います。

 

次に、

今回は、岡田麿里監督のインタビューなどを踏まえて、エリアルとマキアの間の恋愛模様について、注意してみました。

まず、成長したエリアルの目線をよく見ると、完全に恋する少年の目になっています。

エリアルが、ラングに責められていう一言、「こんな気持ちに気づいてしまった」とは、まさしく恋する気持ちの告白です。

エリアルの思いは、思春期男子に共通の、母への思慕と言えるでしょう。だが、決して他人に漏らさない思いです。だから、もちろんマキア本人にも言えない気持ちです。

初めて酔っ払った酒の力で、ようやく「キスしてよ」とふざけたふりをして言えたのが、エリアルの精一杯なのです。

独り立ちしたエリアルは、母への思慕はそのままに、幼馴染のディタと結ばれたことで、大人の男性に脱皮してしまいました。

だから、戦争の後、怪我を負ったエリアルを介抱したマキアが、「どんな呼び方でもいい」と言ったのに対し、エリアルは「母さん」と呼んでしまうのです。今となっては、マキアへの恋心は克服された後でした。

そういう意味で、「マキアは振られた」という岡田監督の考えはその通りです。

幼い頃、ディタはエリアルの愛をマキアと争い、一度は別れ別れになりました。しかし、再会したのち、ついにエリアルの思いを我が物にします。エリアルとの恋でマキアに勝った後だからこそ、彼女は自分の嫉妬心をエリアルに告白できたのでしょう。あるいはエリアルは、実はマキアを振ってディタになびいたことになっている自分に、案外気づいていないのかもしれません。エリアルという人は頭でっかちなところがあるので、生まれたばかりの我が子を抱きながら「この子もいつか誰かを愛する」などと、綺麗事を語っているのでしょう。

ディタは女の幸せをストレートに求め、それを手にする女性です。その一途な純愛ぶりや、ライバルとしてのマキアへのなりふり構わぬ嫉妬は、女性として素直に愛情を表出するキャラクターとして非常に印象的です。

そのディタを助ける時のマキアは、すでに聖母の眼差しをしています。だからこそ、その後の、エリアルを介抱して立ち去るマキアが、水面の上を歩いているかのように見えるのは、救世主的なイメージを醸し出しています。

この映画は、キャラクターの感情表現、目の描きかたで思いを伝える描写が素晴らしい。

 

ところで、

今回の2度目の鑑賞で特典にもらったスタッフ座談会の冊子に、岡田監督と美術監督の東地和生氏のやりとりがあり、東地氏が「マキアはひどい女」説を語ります。もっとも、だんだんマキアの性格がわかってきたとのことですが、確かに男性目線で観ると、マキアは悪女だと言えるかも。

エリアルの恋心を受け止めてやらないのもそうですが、幼馴染のラングが精一杯愛を告白したのに、全くその気がないマキア、確かに罪深い。

全体に、この映画の男性陣は、感情がストレートでわかりやすいのですが、女性たちの思いを辿るのはなかなか難しい。女性キャラたちの視線を丁寧に追っていくと、この物語が女性の生き様の物語だと気づくでしょう。

 

この映画は、百合目線で観ることもできます。

そもそも、マキアと幼馴染の少女レイリアは最初から思い合っていた?男子のクリムはお邪魔だった?

レイリアは、元々は奔放で蓮っ葉な少女で、クリムを振り回し、マキアにヤキモチ妬かせて楽しんでいるようです。

パレードの際、マキアに助けられそうになって、自分が懐妊しているお腹をマキアに触らせますが、あの行動は、マキアを絶望させ自分と共に苦しんでほしいというマキアへの甘えの表れなのでしょう。だからこそ、自分も身重の身でマキアのために命を張ってみせます。

恋人だったはずのクリムが死んだことは案外あっさり信じたのに、マキアは無事だと信じているのも、本当に会いたいのはマキアだという表れでしょう。

愛する娘メドメルのことも、本当はどうでもいいのかもしれません。だから、最後に会った時、娘に触れようとせず、立ち去ることを選ぶのかも。

飛び降りたところをマキアに助けられ、ようやくレイリアは自分の本当の思いに素直になれたのでしょう。

 

物語の最後、おそらくマキアは、レイリアとともに暮らしているはずです。マキアは、死期の近いエリアルを看取るために旅に出ましたが、その後はまた故郷に戻るのでしょう。

ところが、レイリアの方は、果たして生き別れの娘メドメルを看取りに行ったのでしょうか?

また、レイリアは死んだクリムの亡骸を、お墓を、あの後探しに行ったのでしょうか? おそらく、レイリアとクリムの関係は、あくまでクリムの片思いだったでしょう。

筆者は、レイリアはのちにあの長老のようになるのだと想像します。若い日の長老のような女性なのでしょう。

 

この物語は、運命的な螺旋階段によって似たような生の営みが何度もなんども繰り返されるのだと思います。

だから、岡田監督の説明によると、エンドロールの後の画面は、その後のイオルフの絵だそうですが、筆者はあの絵がイオルフの過去の姿、ではないかと思うのです。同じことが何度も、大昔にも起きていたことを表しているのではないでしょうか。

 

※公式パンフレット、帯が洒落ていて、「鑑賞後に読む」よう勧めています。

 

 

 

※公式HPより

http://sayoasa.jp

 

(キャラクター)

マキア

数百年の寿命を持つイオルフの少女。おとなしく見えるが芯は強い。イオルフがメザーテ軍の襲撃を受けた時、そこから偶然逃れ出て、赤ん坊のエリアルを拾う。以後、エリアルの母であろうと心に決めて、エリアルを育てていく。

 

エリアル

マキアが助けた人間の子供。流れ者の集落が賊に襲われ、エリアルだけが生き延びていた。

 

レイリア

マキアの友達のイオルフの少女。マキアとは対照的にはつらつとした性格。メザーテ王の命令によりイゾルに捕えられてしまう。

 

クリム

マキアの友達のイオルフの少年。レイリアと恋心を抱きあっていた。

 

ラング

ミドの息子。幼いエリアルの兄貴分として一緒に過ごす。

 

ディタ

エリアルたちの幼馴染

 

メドメル

メザーテの姫。

 

(監督・脚本) 岡田麿里

(前段略)この『さよならの朝に約束の花をかざろう』は、脚本家の視点としてずっと書いてみたかった物語です。監督として、その先にある映像や音などにも触れさせてもらえることになり、大きな喜びと同時にプレッシャーもあります。それらを乗り越えられるのは、作品に参加してくれるスタッフのおかげです。憧れていた素晴らしいクリエイターの先輩方、尊敬し信頼できる同世代の仲間たち、新しい刺激をくれる力ある若者たち。慣れない仕事に迷惑をかけてばかりの私を、真摯な仕事と熱意で支えてくれる皆と、長い時間を共に過ごし話し合いを重ねて。あがってくる素材をチェックするたび、子供の頃の夏休み、アニメ映画を見て「すごい!」と前のめりになった気持ちが蘇ってきます。(後段略)