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藤巻隆(ふじまき・たかし)オフィシャルブログ

私のテーマは6つあります。
(1)ビジネス書の紹介(2)医療問題 (3)自分ブランド力
(4)名言 (5)ランキング (6)ICT(情報通信技術)
このブログでは、主に(1)~(4)を扱っています。
(5)と(6)はそれぞれ別のタイトルで運営しています。

🔷「結納と結婚式」の中の「結婚式」の後半を掲載します。🔷

 

タイトルは『由美子のいなくなった夏 亡き最愛の妻への想い』

(ハードカバー 四六版 モノクロ264ページ)です。

2016年1月25日 発行  

著者   藤巻 隆  

発行所  ブイツーソリューション

 

✍『由美子のいなくなった夏 亡き最愛の妻への想い』(第22回)✍

 

「結納と結婚式」の中の「結婚式」の後半を掲載します。

 

 

結納と結婚式(3)

 

 結婚式(後半)

 由美子と結婚できて本当に幸せでした。この幸せがずっと続くことを願っていましたが、まさか、こんな過酷な運命が二十四年後に待ち受けていたとは。

 

 不条理–––––道理に合わないこと(goo辞書から)

 

 この言葉が真に迫ったのは、私に人生において、これが初めてのことでした。由美子が息を引き取る瞬間を思い出すと、一瞬、息が詰まりそうになります。呼吸困難になります。そして、いったん、涙が流れ始めると、止まらなくなります。出てくるのは涙か深いため息です。

 

 なぜ、由美子がこんな過酷な運命に遭遇しなければならなかったのか? 由美子に一番損な役回りを引き受けさせてしまい、本当に申し訳なく、可哀想で、胸が痛みます。由美子は何も悪くありませんでした。悪かったのは私です。由美子が重病にかかっていることに気づかなかったのですから。どんなに責められても、反論の余地は全くありません。最愛の妻を護ることができなかったため、自責の念に苛(さいな)まれています。

(PP.56-60)<内PP.57-59は結婚式の画像>

 

 

➳ 編集後記

第22回は「結納と結婚式」の中の「結婚式」の後半を書きました。

「過酷な運命」を描いた小説やドラマがあります。ありますが、これらは例え実話に基づいて描かれたものであったとしても、脚色され、事実と異なるフィクションです。

 

 一方、この回想録は事実を記録したものです。もちろん、場面によっては私の感情が強く出ているところもあるでしょう。当事者であるため感情をコントロールできなかった個所もあるでしょう。あるでしょうけれども、それは脚色でも演出でもありません。

 

 小説やドラマと、私の回想録の違いは、販売目的か否か、あるいは高い視聴率を目指すものか否かです。もちろん、私の回想録は販売目的ではありませんし、多くの読者を獲得しなくても全く問題はありません。

 

 この回想録は20回を超えました。そこで、オリジナルにある目次に沿って投稿した記事をリンクさせようと考えています。近日中に投稿します。

 

 

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🔷「結納と結婚式」の中の「結婚式」の前半を掲載します。🔷

 

タイトルは『由美子のいなくなった夏 亡き最愛の妻への想い』

(ハードカバー 四六版 モノクロ264ページ)です。

2016年1月25日 発行  

著者   藤巻 隆  

発行所  ブイツーソリューション

 

✍『由美子のいなくなった夏 亡き最愛の妻への想い』(第21回)✍

 

「結納と結婚式」の中の「結婚式」の前半を掲載します。

 

 

結納と結婚式(2)

 

 結婚式(前半)

 結婚式当日(一九九一年四月二十九日)は、朝から大雨が降り続いていました。由美子と私は、雨女でも雨男でもありませんが、どうしたわけか大雨となってしまいました。それでも、私はあまり気にしていませんでした。ずっと雨が降り続けることはないし、晴れの日がずっと続くこともないからです。人生もまた同じ、と考えていました。少なくともその時点では・・・。

 

 結婚式には、私の勤務先から二代目の社長、二名の副社長、部長、次長、課長、同僚に出席していただきました。媒酌人には、中学時代の恩師、MK先生ご夫妻、司会は、高校時代のクラスメート、OH君にお願いしました。由美子は学生時代からの友人を中心に出席していただきました。

 

 式の進行に従って、土砂降りの雨が小止みになり、式の終わり頃には晴れたことは嬉しいことでした。誰かが「雨降って地固まる」と言ったとか、言わなかったとか。

 

 ウェディングソングは、当時人気のあった、杏里(あんり)の「SUMMER CANDLES(サマーキャンドル)」を由美子が選曲し、式場で流れました。当時、キャンドルサービスの際、よく使われた曲でした。式の開始当初は雨が降っていましたが、最後は晴れて良かったというのが、二人の偽らざる気持ちでした。たとえ、二人の人生に荒波が襲ってこようとも、二人で協力していけば難局を打開できると信じていました。

 

 ところが、由美子を不治の病で亡くし、大きなショックを受け、トラウマになり、自分の無力さを痛感し、気力が失せています。この気持ちは体験者にしか分からないでしょう。

 

 ときどき、「あなたの気持ちがよく分かる」という人がいますが、私から言わせてもらえば、分かった気になっているだけで、実際には何も理解していないのです。本を読んで知ったことは二次情報であり、自ら体験した一次情報とは、大きな隔たりがあります。

 

 もっとも、深く理解していないのは無理もありません。同じ体験をしていないのですから。最愛の妻を亡くした者にしか、苦しくてやりきれない気持ちが分かるはずがありません。

 

 『死別の悲しみに向き合う グリーフケアとは何か』(坂口幸弘 講談社現代新書 二〇一二年十二月二十日 第一刷発行)によれば、「実際、死別の経験がなくても、当事者を支援するすばらしい活動をしている方を、私はたくさん知っている。体験があるか、ないかではなく、当事者一人ひとりの体験を尊重し、その思いや気持ちに寄り添えるかが支援するうえで重要なのである」(一九ページ)ということです。

 

 しかし、私は懐疑的です。やはり、経験者にしか分からないことは存在します。言葉で説明することは難しいですが、物事を外側から見ることと、内側にいて実感していることとの違いかもしれません。

 

 伴侶の死に直面し、弱いのは女性より男性、と考えてしまうのは私だけでしょうか? 決してそんなことはないでしょう。いざとなると女性のほうが、度胸が据わるような気がします。

 

 いずれにせよ、由美子と結婚できたことは幸せなことでした。結婚式の主役は花嫁です。由美子が主役で、私は脇役でした。そのことに関して、全く不満はありませんでした。当然のことと考えていましたし、事実、由美子は和装も洋装も似合っていて、眩(まぶ)しく感じられ、ついに私の妻になったのだと実感しましたからね。結婚式が終わるまで、全く緊張することはありませんでした。

 (PP.54-56)

 

 

➳ 編集後記

第21回は「結納と結婚式」の中の「結婚式」の前半を書きました。

「雨降って地固まる」ということわざを知っている人は少ないかもしれません。もう一般的ではありませんからね。

そうかもしれませんが、結婚式当日の私たちは朝から土砂降りの雨にあい、式の進行に従って晴れたという事実があります。

ただ、これはその後の過酷な運命を暗示した出来事であり、心の安寧には時間がかかるということだったのかもしれません。

 

 

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🔷「結納と結婚式」の中の「結納」を掲載します。🔷

 

タイトルは『由美子のいなくなった夏 亡き最愛の妻への想い』

(ハードカバー 四六版 モノクロ264ページ)です。

2016年1月25日 発行  

著者   藤巻 隆  

発行所  ブイツーソリューション

 

✍『由美子のいなくなった夏 亡き最愛の妻への想い』(第20回)✍

 

「結納と結婚式」の中の「結納」を掲載します。

 

 

結納と結婚式(1)

 

 結納

 年が明けた平成三年(一九九一年)三月三日、結納のため、由美子の実家を訪問しました。お仲人には、私の中学時代の恩師で国語の授業を担当された、MK先生ご夫妻にお願いしました。私は神妙な気持ちになりましたが、結納は滞りなく終了しました。初めて見た由美子の着物姿は美しく、眩しく感じられました。普段見慣れた洋服姿とは異なり、お淑やかで凛とした風情に惚れ直しました。

 

 「結納を済ませたら、できるだけ早く挙式をした方がいい」、という岳父・眞の言葉に従い、式場探しをすることにしました。ところが、なかなかすぐには見つかりそうにありませんでした。私の気持ちを察して、眞は「心当たりがある。私にお任せてくれないか」と言ってくれました。

 

 式場は東京にある、半蔵門会館に決まりました。この式場は、眞が警察官をしていた関係で、速やかに予約できました。結婚式の日取りは同年四月二十九日に決まりました。当時、四月二十九日は「(昭和)天皇誕生日」で、その後、「みどりの日」、さらに「昭和の日」と改称しました。ゴールデンウェークのスタートの日で、よくこの日に予約が取れたものだ、と感心しました。岳父・眞のおかげでした。感謝しています。

 

 新婚旅行はオーストラリアに決めました。オーストラリアの東海岸を南下するコースです。ケアンズから車で二時間ほどの距離にあるポートダグラスという、日本人が住んでいないリゾート、日本でも有名なゴールドコースト、そしてシドニーの三カ所を巡るツアーです。リゾート(ケアンズとゴールドコースト)と都市部(シドニー)という組み合わせです。地域による際立った特徴があります。

 

 新婚旅行から帰ると、『AUSTRALIA オーストラリア東海岸への旅 Ⅰ』というタイトルで、一九九一年六月三十日(私の誕生日)に旅行記を書きました。その印刷物が残っていました。

 

後ほど、この旅行記の一部をご紹介します。旅行記は数度改訂しています。この旅行記を読み返したところ、当時の出来事が甦り、二十四年前のこととは思えないほどに、それぞれの場面が鮮明に思い出されました。記憶の底に沈んでいた出来事が、突然浮上してきたといった感覚です。

 

由美子と過ごしたハネムーン(今ではもう使われない言葉かもしれませんが)時代に、希望と期待に心弾ませた自分たちが、確かに存在したことを再確認しました。

 (PP.52-54)

 

 

➳ 編集後記

第20回は「結納と結婚式」の中の「結納」を書きました

人生の中で最も大切な出来事の一つである、結婚式の前に行われる結納にかかわる経緯を書きました。

結婚したのは、1991年4月29日のことですから、今年で31年になります。普通に考えれば、ずいぶん昔のことだなとなりそうですが、回想録を読み返してみると、昨日の出来事のように当時の様子が思い出されます。

 

 

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🔷「結婚前」の中の「デートを重ねる」を掲載します。🔷

 

タイトルは『由美子のいなくなった夏 亡き最愛の妻への想い』

(ハードカバー 四六版 モノクロ264ページ)です。

2016年1月25日 発行  

著者   藤巻 隆  

発行所  ブイツーソリューション

 

✍『由美子のいなくなった夏 亡き最愛の妻への想い』(第19回)✍

 

「結婚前」の中の「デートを重ねる」を掲載します。

 

 

結婚前(4)

 

 デートを重ねる

 初デート以来、週末になるとデートを重ねました。由美子に夢中になっている自分がいました。交際するようになってからも、由美子は当社に派遣社員として通っていました。私たちが仕事中に目配せしていることが周囲の人たちに明らかになり、噂になっていました。私たちの交際が公然の秘密となっていました。周囲には、私たちが結婚するのは、時間の問題と見られていました。

 

 私は、そろそろけじめをつけないといけないな、と自分に言い聞かせていました。そして、由美子のご両親にきちんとご挨拶に行かなくてはいけない、と決断しました。年の瀬が押し迫る平成二年(一九九〇年)十二月のある日のことでした。

 

 人生には三つの「さか」があるとか。「上り坂」「下り坂」そして「まさか」です。

 

 今までの人生を振り返ってみますと、進学や就職、昇進といった「上り坂」を経験した後、リストラという「下り坂」も経験しました。そして、人生後半に、最愛の妻を失うという「まさか」も経験することになりました。夢にも思わない衝撃的な「出来事」でした。あまりにも過酷な運命でした。

 

 他人事(ひとごと)と思っていた「まさか」を体験したことに、今、深く、重い痛みを胸に感じています。出てくるのは、繰り返される涙と深いため息です。耐え抜くことは決して容易なことではありません。文字で表現すれば、「耐え抜く」とわずか四文字に過ぎませんが、耐え抜くことは精神的にも肉体的にもハードです。耐え抜けば、その後に良いことがあるはずと確信できるなら、一時的なもので耐えられるかもしれません。

 

 しかし、亡くなった最愛の妻は、この世に二度と戻って来ません。しかし、私の心の中で、ずっと生き続けています。ただ、最愛の妻を護り抜くことができなかった最低の夫は、私であることに変わりがありません。その気持ちが自分を責め続け、苦しめています。その責めに耐えきれず、泣いてしまうのです。

 (PP.50-51)

 

 

➳ 編集後記

第19回は「結婚前」の中の「デートを重ねる」を書きました。

デートを重ねていた過去を振り返ると、楽しい思い出がたくさんあります。それだけに妻に先立たれた喪失感は筆舌に尽くしがたいものでした。

 

 

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🔷「結婚前」の中の「初デート」を掲載します。🔷

 

タイトルは『由美子のいなくなった夏 亡き最愛の妻への想い』

(ハードカバー 四六版 モノクロ264ページ)です。

2016年1月25日 発行  

著者   藤巻 隆  

発行所  ブイツーソリューション

 

✍『由美子のいなくなった夏 亡き最愛の妻への想い』(第18回)✍

 

「結婚前」の中の「初デート」を掲載します。

 

 

結婚前(3)

 

 初デート

 平成二年(一九九〇年)九月二十八日の出来事でした。当社の決算日は九月三十日でした。その日は金曜日(しかも大安)で、翌日は土曜日で会社は休みでした。

 

 終業時刻が近づいた頃、由美子から「今夜お時間はありますか? 食事をご一緒にいかがですか?」と誘われました。すでに由美子に好意を抱いていた私に、断る理由はありませんでした。二人きりの楽しいディナータイムを過ごし、気が付くと、すでに深夜十二時近くになっていました。

 

 帰ろうとした時に、突然、「今夜は帰りたくない。終電に間に合わないので帰れないから」と由美子が言い出しました。私は戸惑いながら、由美子のご両親の元へ由美子を送り届けるのが男だと考えていました。「ご両親が心配するから、送っていくよ」と私は言いました。

 

 ところが、由美子はどうしても私の言うことを聞こうとしませんでした。「家に電話して」と私が言っても電話しません。当時、携帯電話はまだありませんでしたので、公衆電話から電話するしかありませんでした。どうしても由美子は電話しようとはしませんでした。私は諦めました。その晩はホテルに泊まることにしました。

 

 その頃、我が家では大騒ぎになっていました。そんなことはまったく考えていませんでした。母は心配性で、私がいつまでも帰宅しないことで不安になり、心当たりのあるところに片っ端から電話したことを後日知ることになりました。電話を受けた方々に大変ご迷惑をおかけしました。この場をお借りしてお詫びいたします。

 

 由美子のご両親に連絡もせず、交際の許しをまだいただいていないお嬢さんと一晩過ごしたことは、ご両親にたいへん申し訳なく思いました。反省と同時に、たいへん複雑な気持ちになりました。

 

 この一件以来、結婚を前提に由美子と真剣に交際することを心に決めました。もう後戻りできない! 「男はだまって・・・」という当時の流行語を思い出しました。

 

 人生には決断すべき時が何度もあると思います。これが、そのうちの最も大切な一つだったと思っています。

 (PP.48-50)

 

 

➳ 編集後記

第18回は「結婚前」の中の「初デート」を書きました。

私が由美子に好意を抱いていた以上に、由美子は私に好意を抱いていたことを実感しました。私に決断を迫ったのです。今でもその決断は間違っていなかったと信じています。