学校教育基礎研究の授業で、Wさんのお話を聴いた。

 Wさんは、特別支援教育に20数年間取り組み続け、今も日々子どもと学びつづけていらっしゃる先生だ。

 

 今回の講義において、2年生で通常学級から転入してきたY君の3年間の歩みを、丁寧に語ってくれた。

 お話を聴いていて、この実践の持つ意味について改めて考えさせられ、その深い質に圧倒される思いがした。

 

 ぼくがこれまで、親しくつきあい教えられた特別支援に関わる先生たちは、みんな、障害を持つ子どもたちへの訓練主義的操作的主義的対応や指導(こうした言い方が適切かわからないが…)をしない方々ばかりだった。

 ここから生れる具体的事実と実践には、本当に学ぶことが大きかった。

 

 「障害特性」というものは、確かにあるのだろうが、それを固定的にはみないで、一人のかけがえのない要求主体、子ども・人間として見つめ、その子の願いに応えるように日々の実践を創り上げていくのだ。凄いなといつも思う。


 今回のWさんのお話に登場するY君だが、彼は通常学級で存在を否定され、Wさんのクラスに来ても、暴言を吐いたり、物に当たったり、友だちや教師たちの心を傷つけたり悩ませる行為を続けたりしていた。

 しかし、WさんのY君との徹底した丁寧なかかわりが始まる。

 ここで凄いなと思うことは、常にY君の要求や願いが尊重され、その行為の中にY君の願いや思いを聴き取りながら、成長と発達の可能性をさぐり応援していくかかわりを続けていっていることだ。


 Y君は、周囲の人間や事物、学校という枠組みを、はじめ彼の生存を危ぶませるような敵対物として感じていたのだと思う。ところが、3年を経たDⅤDを見たが、彼は、友だちを彼の内部にとりこみ、周囲の世界を自己の生きる世界と共存するものとして受け入れているのだ。

 「子どもの主体が丁寧に尊重され、共感をもって受け止められながら、彼の持つ可能性が認められ励まされるとき、人間は大きく変わっていくのだ」ということがよくわかる。


 通常学級で、この実践をすぐ取り入れることはできないかもしれないが、人間の生存と成長・発達にかかわる本質的視点が提起されていて、上からの力による教育、ドリル主義や訓練主義の持つ問題、始めに型ありきでそこに子どもをあてはめて指導しようとする問題や誤り等、考えさせられる。