新聞広告シリーズ ~ 玉電と砧線の廃止を淡々と告知(昭和44年5月) | 高木圭介のマニア道

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~浮世のひまつぶし~

昭和44(1969)年5月7日。東急の 玉川線(渋谷~二子玉川園)と 砧線(二子玉川園~砧本村)の電車を5月10日をもって廃止することを告げる 東急電鉄 の新聞広告。

      

淡々と文面のみが記され、バス輸送の増発 をアピールしているものの、新玉川線(現・田園都市線)が開通(昭和52年)するまでの 約8年間、沿線の人たちは、さぞや大変だったんだろうなと想像できる。

玉電のアイコン的存在だった 丸みを帯びた青虫のような車両(200形)は廃止後、世田谷線(三軒茶屋~下高井戸)へと移行されず姿を消した。

     
       昭和44年05月11日付の毎日新聞朝刊の記事
 

昔からこの電車にすごく懐かしさというか、愛着のようなモノを感じているのだが、玉電の廃止は私が生まれる25日前のことなので、当然ながら乗ったことはない。

自分でも不思議に思っていたのだが、よくよく考えてみれば、この電車は廃止後、スクラップを免れつつ長らく 多摩川園内に展示 され続けており、それは東横線の中からでも容易に見ることができたので、それが脳にインプットされていたのだろう。

この電車、多摩川園が閉園(昭和54年)してしまった後は田園都市線の 高津駅の高架下 に展示されており、その後は同駅にできた「電車とバスの博物館」に展示。同博物館は2003年から 宮崎台駅の高架下 へと移り、この電車は今も名物として展示され続けている。

  

元号が平成へと変わってすぐの頃、二子新地駅と高津駅の間あたりをブラブラ歩いていたら、高架下のフェンスに覆われた場所に、この車両が 格納 されているのを見つけたことがある。横にはオレンジ色と黄色に塗装された古いケーブルカーだかロープウェーの ゴンドラみたいなモノ も置かれていたが、その正体はいまだによく分からない…。