プロレスのつぼ ~ 闘道館トークイベントで掘り下げられた「東スポ賞」の謎 | 高木圭介のマニア道

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~浮世のひまつぶし~

連休の中日(2月24日)、東京・巣鴨の 闘道館 にて、私が司会を務めたトークイベント「プロレス同期60年 門馬忠雄×高千穂明久(ザ・グレートカブキ)は語る 日本プロレス盛衰史 東京スポーツ『東スポ賞』秘話!」が無事に終了しました。





場内には60人近くものお客さんが詰めかけてくださり、門馬さん(御年85歳)、カブキさん(御年75歳)のトークも熱を帯び、選手(日本プロレス)、マスコミ(東京スポーツ)と立場は違うものの昭和39(1964)年から、ともに時代を歩んできた プロレス界の秘話 を語っていただきました。



今回の重要テーマとなったのは、当時の東スポが日本プロレスの若手選手に、毎興行につき1試合、賞金(5,000円也)を提供していた 東スポ杯(東スポ賞)の存在だ。カブキさん曰く、これがなかなかどうして若手選手たちの励みにもなっていたそうだ。当時を知る門馬さんも私も疑いの目で見ていたが、賞金は実際に選手の手に渡っていた のだそうだ。

カブキさんこと、16歳でデビューした 高千穂明久選手 はデビュー(昭和39年10月31日=宮城・石巻)から1年後の昭和40年末あたりから、東スポ賞受賞の常連選手となっていた。細かく調べていくと、星野勘太郎山本小鉄大熊元司小鹿信也(グレート小鹿)、駒厚秀(マシオ駒)、北沢幹之(魁勝司)といった当時の若手選手を相手に勝ったり負けたり引き分けたりと好勝負を繰り広げ、異常なほどの受賞歴を誇るホープだったのだ。

この東スポ賞は日本プロレスが崩壊する直前まで継続しており、そんな高千穂選手が弱冠24歳にしてジョニー・バレンタインを破り、UNヘビー級王者 なった昭和48年3月8日、栃木・佐野市民会館大会では「小沢正志(のちのキラー・カーン)vs 羽田光男(のちのロッキー羽田)」が受賞している。

では、そんな東スポ賞がいつから始まったか?というと、私(平成5年入社)はもちろんのこと、門馬さん(昭和37年入社)も記憶にないという。受賞の常連だったカブキさん(昭和39年デビュー)も知らない。おそらくは 力道山が亡くなった(昭和38年12月) のことではないか?と推測されていたが、丹念に資料を漁ってみたところ、意外な事実が判明した。
 

       

東スポ賞の制定は、力道山存命中の昭和37年5月29日の千葉・船橋大会からスタート。栄えある第1回の受賞者は 大木金太郎(平井光明=のちのミツ・ヒライ選手を撃破)だった。

    

続く5月31日の水戸大会では、吉原功(のちの国際プロレス社長)vs 平井光明 が15分の時間切れ引き分けに終わり、トロフィーと賞金は 東スポ預かり に。そして6月1日の渋谷・リキパレス大会では、若手のホープ・猪木完至(のちのアントニオ猪木)が 平井光明 を撃破して堂々の初受賞。
 

      

以降は、あらかじめ対象試合を決めるのではなく、その日に取材に訪れた東スポ記者とリングアナによる話し合いで、その日一番の熱闘を繰り広げた勝者へと贈られる形へと変化していった模様だ。

      

そんな歴史を検証しつつの白熱トークは時に脱線、また話しているうちに色んな裏話を思い出したり、意外な事実が浮き彫りになったりを繰り返しては 当初の予定を15分ほど延長。なんとも濃密な3時間となりました。

トークショーにお越しいただきました皆様、本当にありがとうございました。



ただ一つ、悔いが残るとしたら、カブキさん必殺の一発芸「ジム・バーネット(米ジョージア州付近の名物プロモーター)の物真似」を披露してもらうのを忘れたことだ。いつの日か、「細かすぎて伝わらないモノマネ」に出場してほしいものだ。