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takacciの「見た・観た・聴いた・読んだ」

音楽に関すること、観たこと、読んだことへの感想などを書いていきます。(文中敬称略) 2019年4月より別サイトで掲載していた写真の記事も同居させましたが、20年7月に元に戻しました。

本ブログの無断転載はお断り致します。

随分読み続けてきた池田晶子の著作だが、この本を読んだのはこれが著者の逝去(2007年2月)のあとに(6月末)出版された本だから。これまでも著者は「人は死を恐れるが、死を語る人だって死んだ経験のある人は居ない。死について知っている人は居ないのであり、それが恐ろしいことなのか、或いは気持ちの良いものであるのか、分からないのである。だから死を恐れる理由はないのである。」という論旨で語ってきていると思うのだが、(私は彼女のそれがどんな形で到来したのかを知らないのだけれども)死が迫っていた時期の著作を読んだらそれに対する姿勢に変化が出ているかもしれないと思って読んだのである。

 

しかしそういう変化は感じられなかった。

これまで読んできた彼女の著作との違いは語り口の変化だろう。より直接的に彼女の思う「本質」が語られていたように思う。これまでに彼女の著作を読んできた方で「いまいち言っていることが分からない。」という気持ちを持っている人は、この本も読んでみたら良いのでは、と思う。

 

と言っても、どうしてそういう結論になるのか分からない、或いは質問してみたい、という点は多かった。例えば死の恐怖について。人は死んだあとより死に至る直前の苦しみが怖いのではないかと思うのだが、このことに彼女が言及した文章を読んできていても書かれているのを見たことがない、と記憶している。こういうことは形而下の問題なのだろうか。

私はこのように感じる箇所は、この本でも結構多かった。

 

平明な言葉のみで普遍を語ろうとするこの著者には、もっと生きて考えを語り続けてほしかったなあ。

実は私、とある読書会に参加していて、次回の課題本を探しているところです。前回は池田晶子の「考える日々 全編」を皆で読み、概ね好評だったのだけど、「彼女の言うところの『考える』ということをより詳しく知りたい」との意向が多かったので、私もここのところ彼女の遺した著作を読み続けているわけです。だからと言って、別に義務感で読んでいるわけではなく、彼女の繰り広げる哲学的評論が面白いから読み続けているのです。

 

これまで読んだ中では、埴谷雄嵩の著作に解説を試みた「注解『不合理ゆえに吾信ず』」に、彼女の「考える」道筋が一番現れているように思ったけれど、しかしこれは如何にも原理的過ぎるし、彼女の文章にしては珍しく難解だし、何より埴谷の作品を理解していないのにこれを読んでもしょうがない気がします。

 

この「41歳からの哲学」は、「考える日々」や「睥睨(へいげい)するヘーゲル」と同様に、世間の瞠目する諸事件を彼女がどう考えるかを週刊誌に連載したものを単行本にしたものとのこと。(週刊新潮2003/5/1-2004/6/3 誌上のタイトルは「死に方上手」) あとがきによると、当初はテーマを人間の「死に方」、もしくは「死」に限定して始めたものが人間の事象全般に広がったものとのことです。

 

これ以前の連載コラムものより彼女の考え方の説明が丁寧になっていていたように感じました。それでも私には理解しかねる論理の飛躍が見られたものの、それはこちらのおつむの基礎構造に不足があるから分からないのだろうと考え、諦めの心境です。彼女の「考える」ということが、これらのコラムの説明に現れる論理の進み方に表出されているのは間違いなさそうなので、この本を読書会の仲間に薦めることになりそうです。

 

終盤に愛犬の死を深く嘆き悲しむ文章が出てきます。これは彼女にしては極めて破格。

 

この本が出たあとも彼女の著述活動は続きますが、数年後に癌のため惜しくも逝去されました。意地悪な意味ではなく、自身の死を意識せざるを得なくなった彼女の思索を辿ってみたいものです。

荒唐無稽な映画を観るのが好きなので、久しぶりに今日観に行った映画は「シン・ゴジラ」でした。

 

2年前にアメリカ製のゴジラを観て、アメリカの特撮の方が上手なのではないかと感じたのですが、今回のを見て日本の特撮も進歩しているなあ、CGって凄いなあと思ったのでした。何ともリアリティーがあり、迫力満点。

 

観終えてからふと思ったこと。

 

最新作であるにもかかわらず、肝心な場面には伊福部昭のあのテーマ音楽がしゃしゃり出てくるのはどうしてなのだろう。(私はあれ好きじゃないです)

 

本作の中で、登場した怪獣は途中で「ゴジラ」と名付けられる。ということはこの映画に出てくる日本はゴジラに初めて遭遇した日本ということになる。

 

ゴジラと自衛隊の戦いは特撮技術の進歩で大変リアルに感じられたが、ゴジラ映画初回作で展開されたパターンを踏襲しているようにも見えた。

 

ゴジラを封じ込めようとしてなされる策も初回作のパターンに似たものがある。

 

そんなことを考え合わせると、ひょっとしてこれは初回作の意識的なリメークだったのかも

(何せ事前知識なしで鑑賞したため感想も当てずっぽうです)

 

怪獣出現に対応しようとする行政側の大混乱は有事法制の在り方や大災害対策を想起させるもので、他人事とは思えなかった。ゴジラに蹂躙された市街のありさまは、折しも起きたばかりのイタリアの大震災で毎日のように報道されている光景を想わせるものであり、熊本の被害さえも想わせた。今回の作品を観ていて胸苦しくなったのはそのためだろう。

41歳で突然脳梗塞に襲われたルポライターによる闘病記。

自身が取材対象としてきた社会からドロップアウトした人々に著者が見出していた様々な所見が、自らの自覚症状として出現することに気が付き、驚き、戸惑い、これは物書きである自分が頑張ってその苦しさを世に伝えなければならぬと思って著わした一冊である。

 

脳梗塞発症時、周囲への自らの適切な指示により、幸いにも比較的軽い損傷に留めることが出来たとは言え、外見上普通に見えても、人には見えないところで自覚する障害に長く苦しめられることになり、著者は改めてそれを書き広める必要性を痛感する。外見ではもう治ったように見えるため、病気を理由にさぼっている、手を抜いていると見做されてしまうことが多いが、患者は本当に苦しんでいる。それが具体的にどういうことなのか、をルポライターとして伝えようとしている本だった。

 

表紙裏のコピーに「深刻なのに笑える感動の闘病記」と書かれているが、確かに滑稽な出来事が病気故とは言え起こったことは理解できても、ことの深刻さを笑う気にはとてもなれなかった。著者であっても絶望の淵を歩いたのであることを書かれている以上に強調しても良さそうだ。

 

本の後半、ページが進むほど一番近い身内である奥さんとの関わり方が中心となってくる。そして最終章は奥さんの手記である。著者本人の筆だと客観的自己分析も済み、人に伝えにくい後遺症に苦しみながらも回復への道筋が見えているように感じられたのに、奥さんから見るとまだまだ先が長く思われるようだ。奥さん自身が抱える問題もこの本の終盤になって詳しく書かれており、懸命に身を支えあう姿に感動させられる。

 

私自身に同様の発症が出た場合どのようなことが起きるのか、を知りたくて読んだ本であり、その目的は果たせたと思う。問題は自らの人生が救うに足る人生かどうか、でもあるので、その場に至って救いたいと思うような生活にしておくことに注力いたしたい。

一曲目のモーツアルトの交響曲第32番が始まるや、おっこれはアマチュアオーケストラの弦の音だ、と思った。主題がどう扱われ、どう繋がっているのか、注意深く聞いていないと良く聞こえないことが多かったが、あまり聴く機会の多くないこの曲にもモーツアルトの良さがたっぷり詰め込まれていることは十分分かった。聞こえにくかったのは、演奏会の始まりの曲で少々弦楽の方々が気後れしていたのと、金管が強すぎたためだろうと想像。しかし暑い季節に涼しくて雰囲気の良いホール(調布市文化会館たづくり くすのきホール)でこういう時間を過ごせることは素晴らしいことだ。演奏会のことを知らせていただいた団員の方に感謝、感謝。

 

因みに、どんな曲だったのかを確認したくて、帰宅後我が家にあるノリントン/シュトゥットガルトの演奏でこの曲を聴き直してみた。そして、ははーん、この曲は弦楽にかなりの艶が要る曲であり、しかも洒落っ気が必要な曲だったのだなと思った。

二曲目はメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲ホ短調。おー、意欲的な選曲だ! この曲を定演に掛けるくらいだから腕に自信がある楽団なのだろう、と招待いただいた時から思っていた。そして今回出掛けるにあたって一番楽しみだった曲でもある。果たしてどんな演奏が繰り広げられるのか!?

演奏はきちんとメンデルスゾーンのロマンチックな響きを出していて、限りのある楽団の能力を指揮者が上手にバランスを付けて稽古を付けたのだろうと想像しながら聴いた。モーツアルトの時あれっと思った弦のボリュームであるが、逆にそれが良き伴奏者たらしめたのかもしれない。

ヴァイオリンのソロというのは必然的に見栄を切ったり、意識的にテンポをはみ出したりするもの、と私は思い続けてきたのだが、この日の独奏者上田圭さんは至ってオケと協調的だった。こういうソロでこの曲を聴いたのも初めてであり、大いに参考になった。

 

後半のステージがルロイ・アンダーソン名曲集で開始されると会場が一気にぱあーっと明るくなった。プログラムによると、作曲者がボストン・ポップス管弦楽団の作曲者・編曲者に就任してから作曲された曲だそうだ。聴いていてびっくりするくらい幸福感に満ちた演奏で、ゆったりとリラックスしたひと時を過ごすことが出来た。嬉しい限りである。この日4曲演奏されたルロイ・アンダーソンの中では「ブルータンゴ」と「ワルツィング・キャット」が特に気に入った。メディアを通してたまに耳にする彼の曲であるが、こうして舞台で演奏されるのを聴くと全く別の良い印象を受けることが実感され、またまた、演奏会のことを教えてくれた友人への感謝の念が湧いてきた。ポップスコンサートなどで纏めてたくさん取り上げられるとすぐに飽きてしまう気がするけれど、こういうプログラム建てだとほかのプログラムも映えるし、ルロイ・アンダーソンの良さもはっきりして良いように思えた。

さて最後はエルガーの行進曲「威風堂々」第一番。大音響で盛り上がって演奏会を終えるつもりだな、とばかり想像していたのだけれど、この日の趣向はちょいと違った。このオーケストラだけ、というわけではないのだけれども、このオケにも在籍したことのある作家がこのオケにもヒントを得て書いた作品を映画化した「オケ老人!」(11月11日封切り予定)の関連である。主演は杏。その演技を指導したのはこの楽団の指揮者であり、楽団もエキストラ出演したことが紹介され、制作側の数人が舞台に上がって映画制作の様子を紹介したり宣伝したり、と、予想外のイベントが挟まれた。
威風堂々の演奏は大音響一点張りでは全然なくて、それなりのバランスを取りながらのシュアーな演奏で進められた。そういうところに指揮者の音楽づくりが表れていたのだろう。そしてクライマックスに入る直前のテンポを落とすところでまんまと指揮者の術中に嵌められ、ぞわぞわぞわっと感激してしまったのだった。この曲に限らず、多くの音楽的発見をさせて頂き、大変ありがたいコンサートであった。

 

「オケ老人!」のチラシを参考までに掲載しておきます↓

 

「オケ老人!」チラシ

池田晶子の言う「考える」ということがどういうことなのかを知りたくて、ここのところ池田晶子の本を連続して読んできた。この本を選んだのは池田晶子の考え方を探るついでに、難解で知られる埴谷雄嵩の考え方の一端にも触れられるかも、と思ったからである。

 

因みに埴谷雄嵩の本は読んだことがない。私に分かるはずがないと思ってきたからである。

 

収録されている対話で埴谷は、当時執筆中で結局未完に終わった「死霊」に付いて、書けないことを書こうとしている、元々不可能な作業を文学的でっちあげにより表現したいと思っている、と語っているから、その内容は良く言えば詩的で、現実的には不可解な小説になって当たり前だったのだろう。

 

この本の中で「対話」が占める分量は全体の半分を越えるくらい。埴谷の持つボキャブラリーと池田のとは相当な距離があり年代の差を感じずには居られなかったが、考え方の違いでぶつかり合うことがあっても、互いに認め合った二人の哲学論議は楽しめるものだった。(全くの素人なので詳細について感想を述べることは差し控えます。)

 

対話の前振りとして「埴谷家の応接間から」と「最後からひとりめの読者による『埴谷雄嵩』論」の二章が置かれている。前者は埴谷との出会い、後者は題名の通りの内容が述べられており、読み易く分かり易かった。本を読了した後、その部分を少々読み返してみたところ、これはもう一度読み直したい、と思う文章だった。

 

対話篇のあとに置かれた「注解『不合理ゆえに吾信ず』は他の部分とはまるで違う難解さだった。埴谷の著書からの引用と同じ程度の量の池田の注解が延々と繰り返されるのだが、埴谷の文章は頑張って文章を追っても、何とか印象が残る程度。池田の注解は始めのうちこそ「さすが分かり易い」と感じたのも束の間、池田自らの想念を生の形でぶつけてくるような、それでいて埴谷の文章の引用に寄り添うように難しい内容のものだった。これは当初の目的である、池田の言う「考える」内容を探る意味では一番直接的な文章でもあったのだが、読み進むのが大変困難だった。読んでも分からないのだからこの部分は読み飛ばしてしまおう、との考えを抑えつつ、這う這うの体で何とか読み終えた今の感想を言うと、頑張った甲斐あって池田哲学?の一端を覗くことができたから良かった、ということになる。

92年から94年に「新潮45」に連載された対話篇を纏めて94年夏に出版され、2002年に文庫版となった本。図書館で借りて読めた。現在は絶版となっているようだが、「無敵のソクラテス」という本に取り込まれて生き残っており、今でも求めることが出来る。

 

現代社会で脚光を浴びる職業の人とソクラテスが対話する形のフィクションであるが、ソクラテスを模して話しているのは池田晶子なのだから発言は分かり易く、私としてはとても楽しめた。哲学用語を使わない点が素晴らしい。しかし対話の流れが理解できたわけではない。

 

対話篇という形式を読むといつも思うことだが、ここでも同様に感じることは多かった。相手の意見を聞いて答えを返すソクラテスが、何か「すり替え」をしているように思えるのである。それに対する相手の反応がだいたいにおいて「それはそうですが・・・」となるのだけれど、私にしてみれば「何でそこで分かっちゃうんだよ!」とガックリする。恐らく池田晶子の頭の中では論理的に自明のことなのだろう。せっかくここまで平明な対話を示してくれたのだから、もう数段分かり易く論理を繋いでくれたら良かったのにと思う。

 

それでも池田晶子の「哲学」を垣間見るには適した本であることに違いはない。どんな形であれ読み継がれていくべき著作だろう。

先般池田晶子の「考える日々(全編)」を読んで、彼女のしてきた「考える」ということはどういう行為なのか知りたくなり、ここのところの暑さに妨害されながらも三冊ほど彼女の著作を読んでいる。

彼女が言うには「考える」ことの出来る人と出来ない人が居るそうだ。こうして何冊か彼女の著作を読んで、彼女が言おうとしていることは分ったと思うが、彼女がどう考えてそういう結果に至ったのかは分からない。私が「考える」ことの出来ないタイプの人間である証拠だろう。

 

この本は94年以降に書いたものを集めて96年秋に出版したもので、世の中の大きな出来事に感想を述べる点では「考える日々」と同様の方向性を持っているようだが、より直接的に彼女の考え方が示されていたように思えた。より根源的、或いは哲学的と言ってもいいかもしれない。著者の自分の考えを出来るだけ広く伝えたい、という意欲が伝わってきた。たぶん彼女の「哲学」が「考える日々」より色濃く滲み出てきているのだろうと思う。

 

池田晶子の考えに興味を持った人にお勧めの本だと思った。

金太郎と言えば山で熊と相撲を取って育った元気者として広く知られているが、実は金太郎の母は山姥(やまんば)であったという。この物語のルーツを探りつつ、著者は日本の国造り神話から中世のお伽噺、江戸時代の浄瑠璃などを奔放に飛び回りながら、母子神信仰の歴史を紹介してくれる。たくさん同じパターンに基づいたカタリが存在していたようである。山姥たちの哀しみと子を育てようとするおどろおどろしいまでの執念に驚かされた。

但し読みにくい文章だった。引用される文章の位置付けや関係性が良く分からぬまま、どんどん話題が移っていく。著者は分るだろうと思って書いているのだろうが、私が分かるには強引過ぎる文章だった。よって、読後の感想は良いものではない。