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takacciの「見た・観た・聴いた・読んだ」

音楽に関すること、観たこと、読んだことへの感想などを書いていきます。(文中敬称略) 2019年4月より別サイトで掲載していた写真の記事も同居させましたが、20年7月に元に戻しました。

本ブログの無断転載はお断り致します。

副題: 考えるための教科書

 

2003年3月出版の本。

 

荒廃していくばかりの現代(当時)を憂う著者が、世界の今後を担う青少年に望みを託すべく中学生向けに「考える」方法を教えようとした本である。この本が少々難し過ぎたかと思った著者は3年後に「14歳の君へ」とのタイトルで、より読み易い哲学への誘いの本を出版している。

 

読んでみると、この本は彼女の考え方の基本を示す本であることが良く分かった。彼女の残した中で(全部読んだわけではないが)最良の「哲学書」であるように思えた。「14歳」ということにこだわらず、彼女の哲学を理解したいのであれば、誰にとっても先ずは必読の書であると思う。これを読んで理解すれば、彼女のほかの著作を読んで戸惑うことは少なくなるのではないだろうか。

 

かと言って、著者が繰り返し述べているように、哲学の本を読んで理解したからと言っても、その読んで分かった人が自らの力で考えることを始めるのでなければ何にもならない。私のように人から「こうなんだよ」と言われるとすぐに「そうでしたか」と思えてしまう性質の人間には、やはり自らの力で考えるのは難しそうです。

副題: どう考えどう生きるか

 

2006年12月に出た本。

14歳の読者を想定し、当時(今も余り変わらない)その年頃の子供たちが直面するであろう生きづらさを取り上げて、じっくり考えれば些細な悩みに囚われることなく生きて行けるよ、と語りかける本だった。平明な語り口で分かり易い。但し、宇宙に付いて書いた章に関してはあまり頂けないなという印象を受けた。

 

その年代の青少年には是非一読してもらいたい本だと思った。

それに加え、どの年代の人が読んでも少なからず参考になる本だとも思った。

 

あとがきを読むと、この本は著者の前著「14歳からの哲学 - 考えるための教科書」がかなり原理的な書き方だったので、こちらでは柔らかめに書いた、と書いてあるので、原理的なバックボーンを理解したい私としてはそちらも読んでみるつもりです。

本日テレビでこの展覧会のことを紹介していたので興味を持ち、日本橋三越に出かけた。

主に新聞に掲載された写真の中から選抜された写真であり、今年の大きなニュースとなったオリンピック、パラリンピックでの日本人選手の活躍と、熊本の震災のニュースに関連した写真が目立ったように思う。

 

決定的瞬間を捉えた写真を新聞紙面より大延ばししたプリントで見られるので迫力があった。

 

作品として観る報道写真というのも、中には事実を伝えるという第一目的を超えた見応えのあるものが含まれていて、大いに楽しむことができた。

 

逆に、それらしき表情を捉えてそれに則したタイトルを付けている作品を観ると、単に偶然そういう表情をしたところを捉えて適当にタイトルを付け、受けているのではないか、と、報道写真の信用度に疑問を持ったのも事実だ。

 

印象的な写真を見て自分の趣味である写真撮影の参考にしよう、というのが観に行った動機であって、そういう意味でとても楽しい展覧会だった。そして意外なことに、今年の重大ニュースを(忘れていた事件を含めて)ダイジェストで振り返ることが出来た点が大きな収穫だった。こういう面で言えば、まさに正真正銘の2016年報道写真展である。入場無料であるので、これはお勧めですね。

12月5日、大手町の日経ホールにて

 

予備知識があったわけでもないのに、日経に載っていたコンサートの広告を見て聴きに行くことにした。たまには子供たちの声を聴くのもいいじゃないか。子供の合唱はレベルにむらがあって、ことによると外れの演奏会かもしれないが、広告には数々のコンクールで優勝したと書かれているのだからある程度の品質保証がされている。ヨーロッパから来る合唱団のクリスマスコンサートなら如何にもそれらしい雰囲気の曲も楽しめるのだろう、と考えた。

 

開演の時間となり団員たちが舞台に登場してまず驚いた。少女合唱団というから小学生くらいの女の子が歌うのかと(勝手に)思っていたのに、団員たちの体格は大人に近くて、高校生くらいに見えた。或いは大学生も居るのだろうか。

 

最初に歌われたのはヴィヴァルディのグローリア・ミサの第一曲。私も歌ったことのある曲なので「あれを女声合唱で歌うの?」と思いながら聴くと、第一声からすぐに、凄く上手な合唱団であることが分かった。特にアルトの響きが充実していて合唱全体が心地よかった。

次だったか次の次だったかに不協和音の続く現代曲が歌われたが、良く訓練された発声で音程が良く、声量も広い日経ホールを十分満たしていた。私としてはこれがこの日のベスト。

 

何しろ女声合唱は学生又はご婦人のアマチュアコーラスでしか聴いたことなかったのだから、こういうしっかりしたのを聴けたのは望外の賜りものをもらった気持ちになった。あどけない子供が出てきて音楽的には満足できない歌を聞かせる演奏会ではなかった。

 

適宜ソロや重唱が挟まれて演奏に変化を付けていたが、団員の中から出てくるソリストは出来がまばら。すんばらしいソロから不調と思われる人まで居て色々だった。

 

休憩を挟んだ後半は民族衣装に身を包んでのお国柄を前面に出した曲目の演奏。ボヘミアやモラヴィアの民謡がその地の言葉で歌われるのはとてもいい雰囲気だった。これで昔テレビで観たインチョン市立合唱団のように民族舞踊が舞台で繰り広げられたら、もう堪らないだろうな、とドキドキして観ていたのだが、踊りは無かった。同じような時期にチェコ少年合唱団というのも来ていたようだから、舞踊は舞踊で他のユニットがそれ専門で世界を回っているのかな。

 

せっかくの良い演奏なのだから、歌の意味が分かるように字幕を付けてくれたらもっと楽しく聴けたかもしれない。或いはプログラムに訳詞を載せてくれても良かったと思う。それが無いので、歌の題名と舞台上の団員のしぐさ、曲の調子で曲の内容を推測するしかなかった。

一昨日第一生命ホールでラデク・バボラークの演奏会を聴いた。

FM放送やテレビのクラシック番組で前々からその演奏に接し、私がこれまで耳にしてきた中で最高のホルン奏者だと感じていた奏者の演奏会だ。たまたま6月にこのコンサートのことを知り、間髪入れずにチケットを用意した。

 

この日の演奏曲目はオールモーツァルト。最初にホルン五重奏曲が演奏され、あとは小曲と休憩を挟んでホルン協奏曲3曲が演奏された。協奏曲の伴奏は最初の弦楽四重奏にコントラバスを加えた弦楽5重奏が、それ用の編曲で務めた。

 

最初のホルン五重奏曲でバボラークは舞台向かって一番右手に座り、ベルを舞台奥に向けて演奏。ははーん、これは小編成の弦楽合奏と音量を合わせるための座り方だな、と思いきや、その後の演奏はホルンが中央に陣取り、ベルの向きは舞台向かって左側となった。協奏曲であればホルン独奏が目立って聞こえても全く問題ないからなのだろう。

 

さて演奏は、

ホルン五重奏が始まるや否やふわーっと心地よい世界に包まれたようだった。こんなにはっきりとした陶酔郷にのっけから引き入れられる演奏ってのは初めて接したように思う。これが一流ということなのだろうか。こういう上質な演奏が自分から10mほどの距離で鳴り響いていることが夢のように思われた。つい先ほどまでは数脚の椅子と譜面台が置いてあるだけの殺伐とした舞台だったのに、こうも世界は変わるものなのか。

初めは小さく心細く感じられた弦楽合奏の音量だが、ホルンが入っても目立ち過ぎることなく、十分バランスよく聞こえた。バボラークという人は弱音でも他楽器とのバランスを取りながら音楽を活き活きと聴かせることが出来る、敢えて言えば室内楽に適した演奏家なのかもしれない。(普通編成のオーケストラとの共演を聴いたことはないので、室内楽以外での彼は分かりません。)

バボラークの演奏は実に滑らかで、金管楽器を聴いているとは思えないほど。しかし金管楽器の魅力である力強さが足りないということではない。ここのところが何とも言いようがなくて、私の筆力不足を嘆かざるを得ない。そして彼のフレージングは誠に音楽性に富んでいて、聴く者をゆったりとさせてくれるのである。はらはらさせるような超絶技巧のヴィルトゥオーゾという表現とは無縁。難しいパッセージでも楽々と吹きこなし上質の音楽として聴衆に届ける、という意味では、別の意味で超絶技巧のホルン奏者と言うべきだろう。

 

それでも、ひとつの演奏会でモーツァルトのホルン協奏曲を三曲聴くのは私にはちょっと難しかった。二曲目、三曲目と進むにつれて、なあんだ、同じ趣旨の繰り返しじゃないか、と感じたのである。幾ら上等のケーキであっても3個4個と食べれば飽きてくる。この辺り、私の演奏理解力の底が浅いのかもしれない。ことによると、彼がアンコール曲を紹介するスピーチの冒頭に日本語で「おつかれさまでした。」と言って満場を沸かせたのは、この事を指していたのかな。かと言って彼が「くまんばち」を演奏するのなど聴きたいとは思わないのだから困ったものである。

 

先日子供たちが募金しあい、「誕生を祝って金を出すから、行きたいコンサートに行ってこい。」と言ってくれたので、コンサート情報をウェブで見たら、カナディアンブラスが11月中旬から日本国内を回っていて、20日に東京でもコンサートを開くことを知った。

金管楽器の音色が好きで、これまでもフィリップ・ジョーンズ・ブラスアンサンブルやカナディアン・ブラスのディスクを愛聴してきたので、舞台を観られるのならこれは絶好の機会だ。さっそくウェブで調べたらすんなり席が取れた。東京文化会館小ホールの舞台に向かって右側の壁近く、後方の席だった。

聴いてみると

(ここからは’ぴあ’に寄稿したレビューの引用です)

さすがの演奏能力! ペニー・レインの演奏では普段実際の演奏に接することの少ないピッコロトランペットを完璧な演奏で堪能することができた。演目はあらかじめ分かっていたことながら、この楽団が世に売り出し中だった頃のものやCDで聴いたものと変わることなく、もう少し新味を味わいたかったところ。しかしながらステージ上でCD(これもライブの録音だったが)と変わらぬパフォーマンスを演じられること自体すごいことだ。
(引用終わり)

もう少し付け加えます。

・メディアを通して聴くガブリエルは単純で鄙びた古楽の響きに聞こえ、心地よいものの、そう長くは集中して聴けなかった。(我が家のオーディオはサラウンドではない) しかしこのコンサートでメンバーが客席に散開して演奏するのを聴くと実に効果が上がって素晴らしかった。
・取れた席がホール後ろの端のほうだったことはすでに書いたが、小さなホールで金管のコンサートであれば問題ないだろうと考えていた。実際はやはり金管楽器でも指向性があり、奏者がこちらに向いて吹いてくれる時が一番良い音で聞こえた。可能であれば舞台に向かって中央で聞きたかったところである。

・上手な金管奏者はやたら大音響を出すものではないということが良く分かった。文化会館の小ホールは、この5人のアンサンブルに丁度良い大きさの入れ物だったようだ。

・最初のおとなしいルネサンス曲を演奏した後でも聴衆の拍手はすでに熱狂的だった。バンド経験者の多い日本では熱心なファンが多いものと見えた。

・後半の途中で団員から「携帯端末でこれからの演奏をSNSに流してもいいよ。」とのアナウンスがあり、聴衆は色めきたってスマホのレンズを舞台に向け始めた。(私も一枚写真を撮らせてもらった。コラム下参照されたし) その一曲が終わり団員の司会は「ご協力ありがとう。」と言ったのだから、例外的措置はそれで終わった、と私は解釈したのだが、なお多くの人が演奏会の終わりまで中継?を続けていた。その間、ピンコロピンコロとスマホの電子音が散発的に鳴り続けて、演奏を聴きたい私には明らかに邪魔だった。こういうことをやらせるのなら日本語できちんと説明しないといけないのではないか。

・カナディアンブラスはやはり良い。また聴きに行けたらいいなと思う。しかし同じような演目であったらもう聴きに行かないな。

 

著者は2007年2月に逝去なさっているから、この本はその前年の6月に出版されたということになる。「あとがき」によると2004年4月から2005年12月になされた6回の講義を元に、若干の加筆・訂正を加えたもの、とのこと。

 

聴衆の前で語られたものであるので書き物の文章より行間が埋まっていて、より説明的、とも「あとがき」に書かれている。読んでいて確かに、ひとつの考え方を説明するために費やされる文章の量が「書かれた」ものより多かった。しかし書かれた文を読んで何となく分かったように思っていたものが、逆にその「行間」を読むことで分からなくなった、というのが正直なところだ。

 

特に彼女の思考の白眉と思える「魂」と題された講義の章は一番分かりにくかった。これは誠に残念。少なくとも著者自身は分かっておられたのだろうから、どのように分かっておられたのか読みたいところだった。(著者だったら「自分で考えなさい」ということになるのだろうけど、、)

 

最終講義の章では、彼女の著した「14歳からの哲学」を読み大きな影響を受けたという当時17歳の高校生から彼女に送られた手紙が紹介されていた。これがまさにギリシャ時代のソクラテス以前の哲学者が残した断片だか詩篇だかの雰囲気そっくりで驚かされた。「分かる」とこういうように世界を感じるようになるものなのか、と驚嘆したのであるが、分からない私にはそういうものを感じる素質がないのか、とがっくりきたのも確かである。

以前聴きに行ったアマチュアオーケストラの演奏会で、この映画の製作者側の数人がステージに上がって紹介の挨拶をしていた映画だ。原作者がそのオーケストラに入っていたことがあり、その楽団での体験も加味されていると聞いた。主演を務めた杏に指揮指導をしたのはその楽団を指導している指揮者のはずである。

 

さて映画はどうだったか。

原作も読んでいないし、ポスターから受けた印象だけで想像していたストーリーとはだいぶ違う筋立てだった。杏が指揮者として写っていたポスターだけ見ると、アマチュアオーケストラを指導に来ている職業音楽家の役に見えたのだけれども、バイオリンを弾こうと間違って参加してしまった楽団で指揮者をせざるを得ない立場になってしまったのだった。そうか、それならあのぎこちない指揮ぶりもよいのである。

 

筋立てをはじめ、全般的に粗さが目立つ映画、との印象を受けながら観ていたのだけれど、それでも不思議と引き付けられて、退屈することは全くなかった。

 

まさかアマチュアで音楽活動をしている人の中に、劇中の上手なオケの指導者のように鉄仮面表情の冷たい方々が居るとは思われないが、映画を分かりやすくするために良いところ、悪いところをデフォルメしているのだろうから、あれはあれで良いのだろう。現実の音楽活動をしていても直面するジレンマを見事に描き出していたとも言える。

 

クライマックスでは不覚にも涙、涙。そんな感激するところでもないのにおかしいだろう、お前は!と自らに問い掛けてしまった。たぶん音楽の効果だろう。または、「三丁目の夕日」と同じように泣かせる技術が高いだけなのか。最初はとても低いレベルだった演奏技術が映画の期間であそこまで高まるとは到底考えられないのであり、この意味でも無理な筋立ての映画なのだが、それでもやはり音楽を愛する人たちの起こす奇跡にはとろけてしまうし、いい夢を見させてもらい、良いひと時を過ごさせて頂きました、と感謝したくなる映画だったのである。

とても読み易くて面白い本だった。
一文一文が明快であり、読んでいて首を捻るような箇所がなく、すらすらと読み進めた。これは著者がこの本で何度も述べている「論理的にしっかりしている発言は通訳しやすい」という考えに則しているのだろう。

 

同時通訳という職業の面白さ、難しさが良く分かるので、この職業にチャレンジしようとしている人は必ず読んだほうがいいのでは、と思う。

 

この仕事の舞台裏の話も興味深かった。きちんとした仕事にするためには通訳する分野の専門用語の事前学習が必須であり、取り組む分野によって学問、政治、経済、芸術、スポーツ、と様々な分野の知識を勉強せねばならないのだから、語学ができるというだけでは駄目な仕事だということが良く分かった。

 

極度の集中力を必要とするため、長時間にわたる同時通訳では一人15分程度を限度に通訳が交代しながら回していく、という話を読むと、まるでアイスホッケーのセットが交代しながら試合をするようなものだな、と妙に納得した。こうなのであるから、午前の重い仕事が終わってから、「ちょいとランチにも同席して通訳してもらえないかなあ」と頼まれても、「疲れてしまうから」と断らざるを得ないのである。「俺だったら、仕事であれば徹夜してでもやり遂げるし、疲れるからやらないなんてことは言わないぜ」という世界とは違うのである。

 

不肖私も職業としての通訳(同時通訳を含む)とかガイドとか翻訳者をちらっとながら考えたことがある。こういう目でこの本を読み、血沸き肉躍る想いがした。とてもじゃないが出来なかったろう、というのが正直なところだが、頑張れば何とかなったかもしれない、とか、いや、ストレスを引きずるタイプだから身が持たなかっただろう、とかいろいろなことを考えながら読んだ。

 

章の終わりごとにホットな時事英語を紹介するコラムが設けられており、これも面白かった。

 

(括弧で括った部分は本書からの引用ではなく、私が記憶している要旨です)