takacciの「見た・観た・聴いた・読んだ」 -35ページ目

takacciの「見た・観た・聴いた・読んだ」

音楽に関すること、観たこと、読んだことへの感想などを書いていきます。(文中敬称略) 2019年4月より別サイトで掲載していた写真の記事も同居させましたが、20年7月に元に戻しました。

本ブログの無断転載はお断り致します。

この日三鷹で開催される成城管弦楽団第24回演奏会に行くかどうか、これを前日から考えていました。

曲目から考えれば×(ボロディンの交響曲ってどんなんだ!?)、場所も×(我が家から遠い)。しかし「クラシック俱楽部」で放送される演奏会の中で、当日の会場である武蔵野市民文化会館で録画された演奏会は良い演奏会が殆どであったことから、一度はどんな会場なのか訪ねてみたかった場所でもありました。

 

当日の午前に及んでようやく気持ちが固まり出発です。

三鷹駅から徒歩15分でした。会場は市民文化施設であり、ホール専用の施設ではありませんでした。

 

演奏会の曲目は2曲。ボロディンの交響曲第2番と「展覧会の絵(ラベル版)」。

 

ボロディンはひどく深刻な動機で始まりおやっと思ったけれど、それが効果的に展開するでもなく、とても民族的な明るいテーマと交互に絡んで進行しました。第2、第3楽章と進むと私の集中は続かず、半居眠り状態に。終楽章に入ると快活になりさっと目が覚めました。曲は最初のテーマが戻ってきてこねこねしてから終結部へ。

 

正直なところ素人っぽい作りの曲のように感じました。FMで聴いたことがあるかもしれないけど、すぐ聞くのをやめた記憶があるような気がします。

 

「展覧会の絵」も、古典派好きの私が好きな曲でないけれど、ピアノ独奏で聴く方が好きとは言えども、ラベルのオーケストレーションは見事であり、こちらを楽しみに参上したのであります。

 

演奏は頑張ってましたね。しかし技術的にアマチュアには厳しいなあと思いながら聴いてました。何と言っても名人芸が求められる曲ですからねえ。

それでもエンディングの数分間は素晴らしい盛り上がり。終わり良ければ総て良し、ですね。冒頭のテーマの斬新な響きだけでなく、これがあるからこの曲は人気なのかもしれません。

 

この終わりの良さで私はすっかり良い気分になりました。入場料1000円も、それと同じ程度の交通費も、来て良かったなという気持ちで吹っ飛びました。暑い夏にこういう立派で涼しい施設の中で渾身の演奏会を聴く。これは家に留まりエネルギー消費を抑えているより遥かに有用な過ごし方に違いありません。

 

最後に武蔵野市民文化会館大ホールについて。

意外にデッドな音響でした。普通、アマチュアのオーケストラは大きな音を出すので後ろの方に座って聴くのですが、それでも大音響だと細部が聞き取れなくなるものです。それがここでは、展覧会の絵の最後でもうるさく感じませんでした。演奏したオケの特性も影響しているのかもしれませんが。 少なくとも残響の豊かなホールではないように思いました。

アメリカで元祖ポピュリズム政党が誕生して以来の世界的に見たポピュリズムのバラエティと変遷を一冊の新書でまとめてあって、読みにくい文章ではあったけれども、とても興味深く読み終えることができた。この本が発刊されたのは丁度トランプ大統領候補が当選を果たしたころであり、イギリスのEU離脱の件とも併せてタイムリーな書物になっている。

中南米でのポピュリズムと西欧のポピュリズムを国別に解説してくれており、その運動の性格が中南米とヨーロッパではだいぶ違うことが分かったし、スイス、ベルギー、デンマーク、イギリス、フランス、ドイツと国別に書いてもらうと、普通の新聞を読んでいても入ってこない各国の最近の政治状況が見えて来て面白かった。そしてためになった。

もちろんこの本に書いてあることがすべて正しいとは限らないのだろうが、引き続きこの問題を知りたければ、他の著者の解説を読むことに繋げることもできる。そういう意味で良い本だと思った。

 

読んでいて感心した点を一つ挙げると、

物言わぬ有権者というのは、事前の世論調査などを受けても批判を恐れて本音を言っていなかったらしい、という点。であるから、イギリスのEU離脱もトランプ当選も、選挙(秘密選挙)で本音が出ると結果がびっくりぽんになったと解説されている。

 

「物言わぬ有権者」、「置き去りにされた人々」を政治に引き込むという点や、その勢力伸長で既成政党の変化が促される、という点で、著者はポピュリズム政党の良い面も挙げている。

そうは言っても、現実世界での最大のポピュリストである政治指導者は、憎しみと殺戮の時代を招く寸前まで来ているのではないか。

 

昨日(8月10日)の夕方SNSを見ていたら、19時から杉並公会堂で、ショスタコーヴィチの交響曲第5番をメインに据えた演奏会があることを知った。開演までまだ一時間半ある。間に合うだろう、間に合わなくても、或いは満員札止めで入場できなくても、入場無料なのだから、荻窪まで夕方の散歩をできた、と思えば良い。そう考えて家を飛び出した。最寄駅から電車に乗り、さて本当に間に合うのかな、と「乗換案内」のソフトで到着時間を予測してみたら、開演ぎりぎりにはホールに飛び込めそうだった。そして乗換時に速足で歩くなどして時間を稼いだ結果、コンビニに寄って夕飯用の軽食を調達しても、開演の8分前には会場に着き席に座ることができた。それも通常ならS席に当たるような特等席にである。

\(^o^)/

 

演奏会は東京六大学オーケストラ連盟第8回合同演奏会。演目はモーツアルトのドンジョバンニ序曲で始まり、ロッシーニのウィリアムテル序曲、R.シュトラウスのティルオイレンシュピーゲル、休憩を挟んでショスタコの5番、と盛りだくさんだった。どれをとっても上手で驚いたが、他の手の込んだ曲で腕の良さを見せたにしては、最初のモーツアルトはクリアさに欠けたように感じた。やはりこういう古典をきちんと聴かせるのは大変なのだろう。まあ、聴いている私はただ好きで聴いてるだけのなまくらなのだから、いい演奏だったのにそれをきちんと聴けていなかった可能性もある。

それはさておき、二曲目のウィリアムテル序曲では超が付くほど楽しませていただいたし、ティルとショスタコでのコンサートミストレスのソロは目が覚めるほど見事でびっくり。コンサートミストレスはティルとショスタコでは別人。その二人が全く別の個性で、感性の異なる弾き方をし、素人であれば「楽譜通りに弾けたかどうか」が問題になるところを「見事に聴き入らせる」演奏をしたのだから、もう畏れ入るばかりだった。

そしてショスタコーヴィチの第5番は見事だった。下手な感想を長く書くよりは、大袈裟に聞こえるだろうが、もうプロもアマもない、という境地で演奏に浸れる、実に力のこもった、それでいて全体のバランスが取れた名演だった、と短くレポートするほうが適切に思える。地味な指揮ぶりで寄り合い所帯のオケをしっかり統率した横山奏さんは大変な方に違いない、と思った。そう思いながらずうっと聴いていた。

 

参考までにプログラムから読み取れたこの団体のプロフィールをほんの少し。

六大学のオーケストラの有志が集まって、普段とは違う環境で演奏を楽しんでおり、毎年夏に合同演奏会を開いているとのこと。六大学とは言いながら、早稲田からは最近になって参加を得たと書いてあるし、立教の名前は出て来なかった。六大学とは縁のない私にはどうでもいいことながら、そもそも何故六大学で境界を仕切るのがさっぱり分からないが(もしかして野球に合わせている?)、そういうことには構わず、こういう有意義な活動を今後も継続して戴けたらと願うばかりだ。

先般同じ著者の「先生、子リスたちがイタチを攻撃しています!」というのを読んだので、この本は私が読んだ同じシリーズの2冊目となった。この「先生」シリーズは人気シリーズのようでかなりの冊数が出版されている。

 

著者の専攻は、と書き掛けてはたと困った。素人の私には動物学者と思えたのだが、本書の人物紹介だと動物生態学者、人間比較行動学者となっている。細かく見ていくと素人には分からない世界である。だから、ここでは鳥取環境大学で動物学を教えている先生、と紹介させていただく。

 

学生を指導しながらどのような研究生活を送っているのか、を書いたのがこのシリーズであるようだ。読んでいると、本人も学生も、如何に動物が好きでこの道に入ったのかが良く分かる。そして、誰でも持っているであろう動物への愛着が自分にもあったことに気付かされた。

 

研究成果をまとめて一般向けに紹介する本ではなく、動物の行動を解説しつつ、観察の楽しさと言うか、充実ぶりが滲み出てくる本だ。この「楽しい」世界を広く浅く追体験させてもらえるのだから、この先もこのシリーズを少しずつ読んでいくことになりそうだ。

去年くらいから一度は作品をまとめて観たいと思っていた吉田博。上田での展覧会を観に行こうかと思ったくらいなのだが、7月に東京で開かれると家族に教えてもらい、開幕を楽しみにしていた。

 

出来るだけ混雑は避けたいので、平日の今日、昼頃観てきた。会場は予想通り賑わっていたが、多少人が群がっているところをやり過ごしたり、そういう場所を見るタイミングをずらせば落ち着いて観られた。

 

観るほうの私は全くの素人。そうであっても感じたことを言うと、初期の水彩画は結構心地よく見られて、次の油彩はいいと思わなかった。そして、やはり、木版画が期待通りだった。同じような景色を描いても、油彩は暗く、重くかったが、木版画だと程よく軽くて、しかも鮮やかだった。私は印象派が好きなので、同じような趣向に惹かれたのかもしれない。

 

会場に展示されていたスケッチブックの中に、木版画時代を予想させるような色合いの雲海と空のスケッチがあって、その鮮やかさにドキッとした。

 

浮世絵との繋がりが実際どのくらいあったのか、興味が湧いてきた。私としては彼のおかげで伝統が明治から昭和にかけて繋がれた、と感じるのだが、その後(戦後以降)は途切れてしまったのだろうか。

 

月を跨ぐとかなりの展示替えがあるとのことなので、また行こうかな。今回の入場券を提示すれば割り引いてくれるそうだし。

昨日、小松拓人指揮新宿交響楽団の定期演奏会を聴いてきた。第53回定演とのこと。

例によって、他のアマオケの演奏会で配られたチラシを見て気付き、マークしておいた演奏会。なぜマークしたかと言うと、演目にメンデルスゾーンの第五番、シベリウスの第五番という、普段聴く機会の少ない曲が入っていたからだ。どちらの曲も放送やCDで何回か聴いたことがあるが、どこがいいのか分からず、前者は途中で居眠り、後者は「いつになったら本格的に始まるのか」と思ってる間に演奏が終わってしまう、という調子だった。こういうのを実際のステージで聴いてみたら、今まで気付かなかった良さが分かるのではないか、と期待して出掛けました。入場料は前売りで800円だったが、こちらは当日の気の乗り方を重視するので1000円の当日券を買い求めた。

 

第一曲目はドンジョバンニ序曲。全体的に整っていて、私が数年前まで抱いていたアマチュアオーケストラの水準を遥かに越えている。驚いたのはトランペット。ナチュラルトランペットと言うのか、左手を腰に当て右手だけで吹いていたことだ。随分と響きが普段と変わって面白かった。モーツアルトの演奏でもピストン(またはペダル)なしのを使うんですかねえ。

 

次はメンデルスゾーンの5番、「宗教改革」。随分と厳格な雰囲気が続き、半分くらいは緊張感を保って聴かせていただいたが、その後はうとうとしてしまった。だいたいからして3番、4番でさえあまり好きではないのだから、どだい私には理解不能なのかもしれない。でも半分までは引き込まれたのだから一歩前進と考えたい。

 

最後のシベリウス第5番は、聴いてかなりの収穫があった。私の楽しめる音楽世界をちょっと広くできたように思う。まだ素晴らしい曲だ、と思うには至っていないが、どんな曲なのか、おおよそ掴めた。それには演奏前に読んだプログラムの解説が助けてくれたようだ。楽章ごとに大まかな曲の進行を紹介してくれており、実際の曲の進行はまさに解説されていた通りだったから、演奏中、自分の所在地を見失うことなく楽しめた。

これに先立ち「らららクラシック」という番組で、同じ作曲家の第2番の素晴らしさを解説していたのを見ていた。それまで、分かり易い最終楽章に至る前は、断片的なモチーフがモワモワとうごめいているだけ、と感じていたのだが、その部分にこそ注意を傾けなければならなかったようだ。これに気付いていたことが昨日の5番を楽しむうえで役に立った。これからも少しずつシベリウスの交響曲を聴いていこうと思う。

 

アンコールとして静かな弦楽合奏の曲が演奏された。管楽器はいつ入ってくるのだろうと思いながら聴いていたけれど、弦楽合奏のまま、最後にティンパニーがドロドロドロンと加わって終了した。せっかくこれまで好演してきた管楽器群なのだから、一緒に演奏したかったろうに。

後で検索してみたら「アンダンテ・フェスティーボ」という曲のようだ。

 

新宿交響楽団、地味に見える選曲でも何とか聴かせることのできる実力がありますね。これからもこういうユニークな活動を続けていただけたら素晴らしいと思います。

副題: デザインの生物学

 

主に無脊椎動物の体のつくりを紹介し、最後に我々自身も含まれる脊椎動物に言及して対比している。読むと、登場した動物の体の構造から、種としての生き抜くための戦略までがおおよそ分かる。

 

「歌う生物学者」として有名な著者の文章はすっきりとしていて読み易かった。この本を読む前に読んでいた日本のタブーを紹介する本で(書かれた内容は充実していたのだが)文章の拙劣さのため辟易し、ぐったり疲れていた私の頭は、この本を読んで再び、読書の楽しさに浸り、よみがえることができた。

 

それでも沢山紹介される動物ごとに、律儀な正確さで体の構造を説明されると、その量に耐えがたく感じたのも事実。ある程度学究成果を紹介する本であるのだから、これは仕方のないことと納得しつつ、長時間の読書が難しくなってきた自らの衰えを嘆かざるを得なかった。集中力が続かないのである。視力が低下し、それを補うべくメガネを新調したのに、それでも30分もしないうちにピントが合わなくなってくる。

 

読んで一番びっくりしたのは、小さな翅をすばやく上下させて飛ぶ昆虫の、翅を動かす体の仕組みの説明だ。ばね振り子の仕組みになっており、外骨格をペコペコと凹ませたり戻したりして翅を上下させ、できる限り少ないエネルギーで飛ぶとのこと。

 

それに並ぶ驚きだったのが「キャッチ筋」の話。例えば二枚貝が固く貝殻を閉じて身を守ろうとする時、普通の筋肉を使えば多大なエネルギー消費ですぐ疲れてしまうのだが、キャッチ筋なら遥かに少ないエネルギーで長時間頑張れるのだそうだ。これを使って防御する二枚貝を食べようとするヒトデが、同じくキャッチ筋を使って攻める話は壮絶だった。長い時だと攻防は二日にも及ぶそうだ。(そして結果は? 結局こういう場合、二枚貝はいつも根負けしてしまうのだろうか、、)

マーラーの響きが鳴ってました。

作曲当時マーラーは、まさか極東・ジパングで、音楽の専門教育を受けていない若者たちの、趣味で音楽を奏している集団がこんな演奏をするとは夢にも思ってなかったでしょう。

CDで聴き付けている演奏と比べると、あそこが充分でない、とか、あそことあそこで間違えた、とか、いろいろ出てきますけれども、自分では今、何の演奏もしていないけれど、クラシック音楽を五十年以上聴いてきた耳で聴いて、ああ、マーラーをたっぷり楽しめた、と思える演奏を学生のオーケストラがしてしまうのだから、凄い時代になってきたのだなー、と感心しないわけには行きません。

 

例えば学生のクラブ活動に「オペラ部」というのが昔からあったとして、それが年々上手になって、プロには劣るけれど楽しめるレベルの「魔笛」だの「カルメン」だのを発表会でやり遂げる。それをオーケストラという分野で現実に体験しているように、私は思いました。それもこの楽団だけでなく他の団体でも。

(2018/5/27補筆: 学生の歌劇団はかなり前から存在していたようです。東京大学歌劇団は2018/2/12に第48回公演として、チャイコフスキーの「エフゲニー・オネーギン」を三鷹市公会堂で上演しています。私は他のオケを聴きに行ったため観られませんでした。)

 

マーラーの第5交響曲は数年前に他の学生オケでも聴き、その時も結構楽しめる演奏でした。しかしその演奏会ではマーラーの前に演奏した分は駄目で、それこそマーラーに集中して練習したのが見え見えでした。今回のはショスタコの祝典序曲もハチャトリアンの仮面舞踏会組曲も(それなりに)仕上がってました。凄い。

 

指揮者がアンコールに応える前のスピーチで言っていたこと。「25年前の50回定演では学生たちの熱意でマーラーの2番をやることになり、大変な練習をしました。今回の第100回では学生が演奏するマーラーの交響曲の中で一番難易度の高い5番を取り上げることになり、懸命に練習してここまで演奏できるようになりました。」 

確かこういう趣旨の挨拶だったの思うのですが、ではこの先はどうなるのか。例えば第150回定演は? 考えてみたらその頃生きてるかどうか分かりませんね、私は。

 

音楽専門ではない学生をここまで引き上げている指導者、トレーナーのシステムも凄いのでしょう。

たぶん半年くらいをマーラーにどっぷり浸かって練習に明け暮れてきたであろう団員の皆さんが羨ましく見えました。それでも、大変な集中力を長時間保たなければならない演目をやったのだからヘトヘトでしょう。しっかり休んで欲しいものです。マーラーを振り続けると身体を壊す、と言う指揮者も居たことだし、次の半年は多少休み休みやったほうがいいかも、などと勝手に心配してます。

先日新聞でこの映画の紹介を読み、永井豪の「鋼鉄ジーグ」というアニメを取り込んだ映画だと知り、本日封切りのこの映画を観て来た。イタリア映画だ。へー、イタリアでも永井豪のアニメが流されたんだ。帰宅してから調べたら、ウェブではこの映画、「ダークヒーロー x フィルム・ノワール」の映画と紹介されていた。

 

恥ずかしながら私は「鉄鋼ジーグ」を知らなかったが、ウェブで見たアニメの画像を見て何となくホンワカした映画を想像していた。子供向けのアニメだったからだ。しかしこの映画は暴力シーン満載であり、好みのものではなかった。むしろテレビで何回か見たことのあるたけしの映画と雰囲気が似ている。永井豪で言えば、昔短期間だが愛読した「バイオレンス・ジャック」の雰囲気に似た映画だった。

 

明るさの面から考えて紹介すると「大人の童話」と言える映画だろう。但し暴力シーンを漫画的に解釈できる人が観れば、という条件付だが。

 

補足です。観覧車のシーンが良く撮れていて、名シーンと言えるのではないでしょうか。

アメリカ人である著者は今、日本に住んでいる。子供時代を過ごした台湾で住んだ家は日本人が建てた家であり、そこでは当時幻の大陸だった中国のことばが自然に耳に入ってきた。今は外国人が旅行できるようになった中国を著者は繰り返し訪問し、その中で中国語のシャワーを浴びつつ日本語で感じ、それを新宿の路地裏の住まいに持ち帰って日本語の文章を書く。

 

私が読んだ限りだと、著者は子供時代を親の仕事の関係で台湾や香港で過ごしたのだが、著者がなぜ日本に住み日本語で本を書くようになったのかがよく分からない。アメリカの大学で日本文学を教え、「万葉集」の英訳で賞を取ったあと、40歳を前にして東京に定住した、と巻末の略歴に記されているが、他のソースで著者は中上健次に勧められて日本語の文章を書くようになったと読んだ覚えがある。

 

それはさて置き、彼の目にする中国は刺激的だ。中国には外国人に行ってほしくない、又は通ってほしくもない地域・地区が多々あるようだ。私はこれを、知ってほしくない現状を隠すためだろうとばかり思っていたのだが、この本を読むとそればかりではなく、外国人旅行者の身の安全を保障するのが困難なところも多いのが原因である、と思うようになった。この本の中で著者は2回身の危険を感じる体験をしている。そのひとつは満員のバスの中で、著者が日本に住んでいると聞いた老人が「南京で何人の人が殺されたのか知ってるか?」と声をあげ、車内が緊張したとき。アメリカ人である著者でさえ身の危険を感じたのであるから、これが平和ボケした日本人であったらどうなっただろうか。

 

もうひとつは日が暮れてから宿泊地への幹線道に戻ろうとし、そのとき乗っていたタクシーが数人の男たちに止められたとき。運転手に言われ車内で身を隠していた著者は、車外の大声の応酬を聞く。あとから加わった一台を含めた長い騒動のあと運転者が戻り、説明するには、ここを縄張りにする者たちが法外な通行料を要求してきたのだ、とのこと。あとから来た一台は警察の車だったが、警官一人ではどうしようもなく、別の道(山道)から迂回するよう勧め、先導してくれたのだった。乗客が外国人だと知られたら無事で済んだかどうか、、、

 

著者の視点は当然日本人のものとは異なっており、その眼に映る中国は普段想像している中国とはかなり違う。それがとても面白いルポルタージュを作り上げている。

 

なぜ著者は日本ではなく中国を歩き回るのか。

彼にとって中国探訪は自分のルーツ探しに繋がっているのかもしれない。

 

彼の著作を読み続けていれば、ちびりちびりとではあるが、彼の前半生が浮かび上がってくるような気がする。これまで彼の本を読んできてそうだったからだ。今後も彼に関する謎を徐々に解いていくであろう新著を待望する。