「理不尽なことが多い人ほど強くなる」 中谷彰宏著 | パーマン三号のブログ

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「不動心」とは、何事にも動かない心という意味ですが、例えば、電車で脚を踏まれてもへっちゃら、何とも思わない…ということではなく、脚を踏まれ怒っても、それに「流されないこと」なんだそうです(禅的に)

「流されない」といっても「自分の意思で意地で」そこにとどまるということではなく、自分を「客観的に見る」ことで、その「客観的な視点」こそが「流されない不動心」ということらしいです。

そうやって「客観的に見る」と「怒り」がそれ以上膨らまないで済むからです。


脚を踏まれてすぐに怒るわけではなく、脚を踏まれたら最初の反応は「痛っ」です。

その後「あの野郎」となるわけです。

更にエスカレートして「踏みつけ返そう」と考えてしまいます。

つまり

痛っ→あの野郎→踏みつけ返そう、の三段階を一瞬にして心が行うのです。

だから→の時に、何かを「かませる」ことが出来れば、心は違う方向へと流れるはずです。

実際

「痛っ」と脚に何かの力が加わった時、それが自分が落とした本だったとしたら、「あーぁ」と思うだけで、それ以上何にかに心が進行することはありません。

また、目の不自由な人や脚の弱った老人に踏まれたらとしたら、これも「仕方ねぇ」で、心は進行しません。


「相手が五体満足で故意にやったこと」だとなると、「この野郎」となるわけです。

この「五体満足」や「故意にやった」かどうかはあくまでも自分の「反射的な推測」です。

もしかしたら外からはわからない「病気」が潜んでいるかもしれません。

よく

「あいつは精神的な病人(馬鹿)」と考えて、心を収めることはよくあることです。

これははじめの→の方向の流れを変えようとする方法です。

また

「あの野郎」と二段階目に移ってしまっても、「踏みつけかえす(復讐)」までにはあと一つの→があります。

この後の→には「一般的なこと」をかませるといいと思います。

例えば

現実的な確率では脚を踏まれることが無いことはない、とか、踏みつけられる日も無いことはない、とか。

ただ、これもやはり訓練する必要があるみたいで、「わかった」段階ではまだ浅く「反射的に納得する」レベルまで繰り返し繰り返し心を訓練する必要があるようです。

これさえ知れば、理解すれば明日から怒りから解放される、のではなく、「反射的」には「反射的」で繰り返し繰り返し訓練します。


「喜怒哀楽」は人間誰もが持ってもいい感情で、「復讐」などの「恨み」や「妬み」「呪い」はその更に「上の段階の感情」で、時間的にも「怒り」や「哀しみ」のかなり後から湧いてくる感情です。

だから、短時間で心を収めれば、「怒り」は「怒り」のまま、「哀しみ」は「哀しみ」のままで、消えてしまいます。

「一晩ねたら忘れた」と言うように、一晩でなくても一週間もしたら、ほとんどの感情は忘れてしまいます。

むしろ変に心を変化させて、「残ってしまう形に変形」させてしまうと、ずっと心に残ってしまいます。

これを「心のPFAS(ピーファス)」と言いますw


「喜怒哀楽」についても、感情の出てくる順番は「怒→哀→喜→楽」だとする人もいます。

つまり感情の始まりは「怒」で、通常ならば最後に「楽」がくるはずなのに、間違ってしまうと「苦」になってしまいます。

だから心が「怒」の段階で消してしまえば良いのです。


でもそもそも

怒りを呪いにしてはいけないの?

お好みならば別に構わないと思います。

しかし

それでは、最終的に自分が苦しみます。

「怒→哀→苦→嫌」という道筋になり、周りが嫌いになり、自分も嫌いになります。


さて、この本「理不尽なことが多い人ほど強くなる」には、「怒→哀→苦→嫌」にならないように、→に「かませる」63個のレシピが書いてあります。

どれもかなり具体的で、簡単で、繰り返し訓練すれば、2、3個は使いこなせるようになると思います、たぶんw

どれも魅力的なのですが、とりあえず自分はこの2つに絞って訓練してみたいと思いました。

1.「自分の損より相手の損に気づく」
(25頁)

2.「目立たない幸運に気づく」(72頁)


この2つだけでも自分のものして、反射的に出来きるようになれば、かなり強力な「不動心」を養えるでしょう。


毎日

神様、仏様の前で「どうか〇〇さんと縁を切って下さい」と祈っています。

でも、決して「◯ね」とか「呪います」とかは言いません。

なぜなら、その人が自分の前から居なくなってくれさえしたらいいのですから。

それでも毎日会っては嫌な思いをして苦痛は募ります。

でも「神様、これだけお願いしても駄目なのですか」とか「仏様は助けてくれると言ったのに、嘘つきだ」とも思いません。

祈りはただ「気持ちを隠さずに出している」だけなのです。

「叶える、叶えない」は神仏の権利だし、決して神様は「叶えられない」わけでもないと思っています。

もし自分の都合で神様が動いてくれるなら、神様ではなく自分の眷属や下僕になります。


叶えられない→信仰をやめる

この→には自分の勝手な思い込みがあると思います。

仮に、祈りの通りに叶ったとして、それでも最終的に幸福になれるかどうかはわかりません。

そもそも、怒りや呪いは、自分が幸せになりたいことが根本にあるのだから、神仏の計り知れない思いが、最終的に幸福へと導いてくれると思うならば、今の願い事がそのまま叶えられなくてもいいのです。

また

神仏の前で綺麗事だけを言うのも違うと思います。

何故なら「喜怒哀楽」は神仏が与えてくれたものだから、怒りも楽しみも隠さずに神仏の前で言っていいと思います。


とはいえ現実は

願い祈りもむなしく、毎日すっきりしない事が多いけれど、いつくになっても、何をしても、結局全てがすっきりする事はないのかもしれません、永遠に。

だって真実は

理不尽だらけだからです。

それならば、はじめから上手くいくはずはないと考えたほうがいいかもしれません。


そこで3つ目のレシピ

3.世の中は理不尽だ(90)
「絶対悲観主義」(楠木建著)には全てがうまくいかないと考えるとメリットがたくさんあると書いてありました。

理不尽な事は理由なく、突然襲ってきます。

だから、理由を考えること自体を辞めてしまうのもひとつです。

「毎日必ず理由もわからない理不尽な事が三つは起こる」と考えていると、理不尽が起こっても「やっぱり」で終わる(はず)

「じゃんけん方式」もいいかもしれません。

某局の「◯こちゃんに叱られる」の最後のじゃんけんと同じように、「今日は理不尽な事が二つ起こる」と予想して寝る前に答え合わせをするのです。

当たっていたら嬉しい(はず)

同時に予知能力も鍛えられます(はず)


理不尽に強くなり、不動心になりたいです。

還暦過ぎた漢が、今さら言うことではないことですが…。

理不尽もがっつり四つに組むより、斜に構え少し離れたところから眺めることが出来たらいいな、と思います。


長々と妄想にお付き合いいただきありがとうございましたm(_ _)m