パーマン三号のブログ

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前回、花を巡り「美味しい」思いをしたので、今回も「花&オモウマい店巡り」をします(もちろん寺社もまわります)

しかし、「美・味・しい」は、並べ替えると「美・しい・味」とはよくしたものです。

花も食べ物も共に「美」という文字を使う日本人の感性は、豊かな四季の自然から育まれたように思えます。

「美」の漢字は「羊が大きい」が由来と言われていますので、美食同源ですね。


よく

「雪月花」と言われますが、これは自然の美しさを述べた言葉です。

雪は冬、月は秋、花は春の美しさ…あれ?夏がない!

夏は美しいものがないのでしょうか?

元々はこの雪月花は中国の詩人、白居易のものだから、中国においては夏は過酷な季節だったのかもしれません。

同じような疑問を持った日本人が後に「雪月風花」という四字熟語を考えたという話もあります。

つまり、夏に「風」をあてたのです。

日本人は「二十四番花信風」などというくらいに、「風」にたいてしてひときは思い入れがあったようです。

ちなみに宝塚歌劇団の組の花・月・雪という組分けもここから来ているそうですが、風組がないのは残念です。


では

日本独特の自然礼賛の言葉は無かったのでしょうか。

日本には「花鳥風月」というのがありますね。

こちらはいつごろから言われ出したか、はっきりしないそうですが、かの世阿弥の「風姿花伝」の中に「花鳥風月」という言葉が既に出てくるそうです。

雪月風花よろしく、花は春、風は夏、月は秋…そして雪の代わりに「鳥」?

冬は鳥?

鍋ですか?

美味しいけど…

実は、「花鳥風月」は、花は春の美しさ、風は夏の涼しさ、月が冬の寂しさで、鳥は秋の哀愁をそれぞれ象徴しているそうです。

道元禅師は

『春は花、夏ほととぎす、秋は月、冬雪さえて冷しかりけり』

夏に鳥(ほととぎす)をあてています。

つまり、

春だけは常に花が独占し定番なんです。

なので、

古今東西、春は花を愛でる季節に一番よいということです。

本日は、紫陽花と菖蒲を愛でて小さな春を見つけにいってきます。


7:00
出発
本日は雨です。
これから花見をするのに雨なんて…とだいたいの花見はそう考えがちですが、アジサイだけは、雨ラブです!

例えばヒマワリは太陽がよく似合うように、アジサイには雨がよく似合いあす。

他にもバラや菖蒲など、咲く季節によってまわりの環境にはまるように出来ているようです(視線の先には自然)

「レイニーブルー」(徳永)とか「晴れたらいいね」(DREAM)とか、本日は聴きません。

本日はこれ聞きながら…粛々思途々々と参ります。

https://youtu.be/iO8x-vd3eqU?si=SXWMQk_mIWSNZ9_5
雨音が音楽に聴こえる日本人はいい♡

https://youtu.be/rnXwgx6g_Hk?si=r99ytKZQT37CcMeR
気温が高い本日は「露天風呂」気分です♡


7:56
一番はじめの目的地の公園へ到着。
駐車場が8:00からしか開きませんでした。

8:00になり入園、前回来た時よりだいぶアジサイが咲いていて、菖蒲は今が盛りでした。

バラは前回より花がなくなり、盛りは過ぎたようでした。







この後、亀ヶ池八幡宮、無量光寺へ参拝した頃にはすっかり雨もあがり、雲間から陽の光がさすようになっていましたが、依然として雲は厚く気温はそこそこ高く蒸し暑かったです。







そして立て続けに公園を3つまわりました。

県立相模原公園、相模原麻溝公園、麻溝台公園…

公園もそれぞれ特色があり、中でも相模原麻溝公園は、第38回菖蒲祭りが本日より開催されていました。

そこで久しぶりに野点のお抹茶とお菓子をいただきました。

「裏千家はよく泡立ててクリーミーに、表千家は泡だてず、泡からお茶の表面が三日月型が見えるように薄ーく泡立てる」

などとうんちくを述べながら美味しくいただきました。









お茶菓子に銘「アジサイ」をいただきましたが、この公園にはアジサイは申し訳程度しかなく、その代わりに菖蒲がとても広い敷地に綺麗に咲いていました。



菖蒲は江戸系、肥後系、伊勢系と別れていて、カキツバタ、アヤメ、ハナショウブの見分けたも丁寧に説明された看板がありました。















そして

「花」を堪能した後は「食」です。

「食」にて本日もまたまたハプニングが起こりました!

今回のハプニングはかなり大きなウェーブでした。

前回はお寺のレストランからオモウマい店に変更して行きましたが、本日はその逆で、オモウマい店に行くつもりが、気まぐれで以前からチェックしていたお店へ伺いました。

この選択がのちのち波乱に巻き込まれることになります。

その変更したお店は元々おそば屋さんなのですが、刺し身定食が人気で、大盛り新鮮で1000円のコスパ最高の定食が食べられるとのコメントがありました。

これはいくきゃない…(と)


11:19
開店は10:00ごろ(たぶん)で、ちょうどお客さんが一巡したあたりの11:00に到着、席は待たずに座れました。




まずメニューを見てびっくり!

刺し身定食は1000円どころか、3000以上に跳ね上がり、僅かにうどんなどの一品ものが900円で提供されているではありませんか!

えー!ナニコレ!

確かにコメントの日付は最近ではなかったかもしれませんが、それにしてもこれは無いでしよう。

お店間違った?

既に着座しているのでお店を出ることも出来ず、さもそれは承知しているかのように、自分はとんかつ定食ミニ刺し身付(1800円)と家内はアジフライ定食ミニ刺し身付(1800円)を注文しました。

刺し身付き出ない場合は1200円ですが、刺し身を食べにきているので、ここは意地でも外せません。

こんなことから

まだ食べる前からテンションだだ下がりで、ショックのあまり周囲が暗くなり、気を落ち着かせ周りを見渡せるようになるまで、しばらく魂が抜けてしまいました。

やっと落ち着きがもどって

よくよくメニューを見ると3500円は刺し身の盛り合わせ定食で、本来のランチの刺し身定食は2500円でした。

しかしそれでも高い、かなり上がってます。

にもかかわらず、その2500円のランチ刺し身定食は既に完売…僅かに開店から1時間程度で…。

お店も間違ってはいません。

普通のそばやの店構えに騙されて、どうやら分不相応の「実は高級店」に入ってしまったようです。

店を間違った。

あーぁ、やっぱりオモウマい店から変更したのが失敗だった…。

ここまで順調だったのに…。

更に食事の提供が遅く、着座から1時間も待たされました。

確かに「提供には少し時間がかかりますがよろしいですか」とは言われましたが、ここまでとは…もう最悪です。

踏んだり、蹴ったり、ぼったくりです。

値段も時間もはるかに予想を上回る負のエネルギーでいっぱいになりました。

こんな時は、

念彼観音力、念彼観音力、念彼観音力…幸島大師、幸島大師、幸島大師(好事魔多し→幸島大師=好事魔退治)


12:19
やっと頼んだものが来ました。

……?……ここは「とんかつ赤城」?

とんかつの厚さは3cm、いや5cmはある肉の固まりがサイコロ状にカットされて運ばれて来ました。

更に食べてみると、この厚みなのに信じられないくらい柔らかい。

家内の頼んだアジフライも一匹ものが四枚で量も多くほくほくしていて、柔らかい。

どうやら料理の提供時間が長いのは、注文されてからじっくり弱火を入れて調理しているからのようです。

付け合せの刺し身はカツオが4切れでしたが、僅かに脂がのっていてこれもかなり旨い。

待たされてお腹もベコベコになっていたので、よりいっそう美味しく感じました。

「空腹は一番の調味料」と誰かが言ってましたよね。

やるなぁ。

今まさにマイナスから一気にプラスに反転しました。

結局、幸せ満腹になりました。

とはいえ、やはり1800円の値段には不満が残り、自分のなかでの評価は「普通」。



…で終わり。

…ではなかったのです。


時間で言えば着座してからだいたい40分くらいして、隣のお客さんのテーブルに食事が提供されました。

持ってきた店主とお客さんが何やら薄笑いをして会話をしてました。

その後店主が去り

隣のテーブルから「ガリガリ、ガリガリ」と音がしてきました。

更に、衝立てで目隠しされてはいても、お隣さんとテーブルが繋がっていて、そのテーブルが震度3くらい小刻みに左右に揺れるのです。

それもずっと…

衝立てが邪魔してこちらからは様子をうかがうことができませんが、あきらに「何か」を力強く削っているようなのです。

ガリガリ、ガリガリ、ガリガリ…

何を削っているんだろう、鰹節?まさか…

「ちょっとトイレ行ってくる」

と言って席を立ちます。

それは隣の席を通って斜め後にトイレがあるからです。

ここでお店の間取りですが、2つに衝立てで仕切られ、二人分にわけられているテーブルが四卓と、座敷が六畳くらいに六人用のテーブルが二卓あるさほど広くないお店となります。

トイレに行くのも座っている席から2、3歩の距離です。

あまり他人の食べているところをジロジロみるのはよくない、と教わってきましたが、席をたち、隣のテーブルがみえたとき、思わず固まってしまいました!

なんと

隣のテーブルのスペースいっぱいに肉のついた、血のついた「肋骨」がどーんとのっているではありませんか!

「スペアリブ」です!

もちろんそんなメニューはありません。

それに普通スペアリブとは違って、「骨付き」ではなく、こちらは長さにして0.6m以上はある、テーブルに乗せるのがやっとの「肋骨」がそのまま提供されているのです。

https://youtu.be/uGQWCiNDAz8?si=SpmvFj5iS162piRd
事件だ!

https://youtu.be/mDwlUueNYjE?si=RKlNxJk2S0vAtutl
女将さん、事件ですよ〜!

うっ!

人間はこうゆう時、思わず口を押さえてしまうのですね。

あの「ガリガリ音」は、その肋骨についている肉をスプーンで「削ぐ」音だったのです!

https://youtu.be/vQGxm-TlUFU?si=XsR0a48eNPG4Y8t4
ガリガリ、ガリガリ、ガリガリ

手で口を押さえた後

おいおいおいおい、なんじゃこりゃ〜!

断末魔のショウケンさながら、とんでもない声が出てきました。

その光景はまるで地獄絵図。

えっ?ここは地獄なの?

もしかしたら自分はいつの間にか魔界に紛れ込んでしまったのかもしれない。

それとも◯んだ?

今までそんなに悪い事をしてきた意識はなかったのに、さっき些細なことで、観音様の呪文を使った罰かもしれない!

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏…

あっ!

まずい、また反射的にお経を唱えてしまった、仏罰があたってしまう。

オン・アボキャ・ベイロシャノウ・マカボタラ・マニ・ハンドマ・ジンバラ・ハラバリタヤウン

まずい、大日如来様の罰が…堕ちる…

https://youtu.be/Qlb1grx_Mh8?si=RI48Ai8wCk_cAhcI
「もうエロ、エロ、エロ♪」
昭和はいいねぇ、こんな曲をアイドルに歌わせるなんて。
最近よく「◯ぬ」とか「◯ね」と伏せ字になること多いけど、「◯ぬ◯ぬ」のこうゆう使い方もいずれ無くなるのでしょうね。
岸本加世子さんを大場久美子さんと混同してずっと「コメットさんは実は色っぽい」と思っていました。
でも本当は九重佑三子さん世代です。


そしてまずいことに、お隣さんと目があってしまったのです!

ニヤリ…

その時何か匂ってきました。

ん?この匂いは…ねぎとろ?

そう

実は肋骨そっくりのマグロの骨だったのです。

ねぎとろがついたままのマグロの骨ごと提供しているのです。

まさに「マグロのスペアリブ」

そんなの見たことないので、勝手に脳みそが「人間の肋骨」と解釈してしまったようです。

後でメニューの一日限定四人の「本マグロのねぎとろ定食」だとわかりました(要予約)

ありえへん「ねぎとろ定食」。

事前の調べではそんなこと一言も書いてなかったのに…。

これだけインパクトがあるのに、情報としては0なんて、これもありえへん。

このお店は料理の撮影は禁止なので、SMSにもコメントにも書かれていなかったのです(自分もあえて店名は伏せさせていただきます)

https://youtu.be/vrGaiXbtyz8?si=2wsoS49AWE6OZB6M
値段も料理も予想guyでした。


料理の値段にこの「ショー」が込み込みならば、少しプラスですかね。

そして

「ねぎとろショー」をみて命を奪って生きている自分に改めて気づきました。

ねぎとろもそうやって削ぐことは知識としては知ってましたが、実際目の前で行われると、また違った感情が湧いてきます。


今度は、自分がねぎとろ定食を頼んで「肉を削ぎ」、目があったら意味ありげにニコっとしたいです。

次回は「豚トロスペアリブ」という料理も出来ているかもしれません。


ちょっと「サイコ」なお店でしたが、あらためて命を「いただいて」いることに感謝できる「サイコウ」なちょっとお高めのお店でしたm(_ _)m

https://youtu.be/r3eaU_BtVUY?si=9J7KIWfqpI4WBkIb
確かにそのお店も水はレモンの味がほんのりしました、もしやスタンド使いw

★人によってはかなりグロいグルメ、いわゆる「グロメ」になるので、サプライズで使う時はお気をつけ下さい。


   時     坂村真民

日の昇るにも 手を合わさず

月の沈むにも 心ひかれず

あくせくとして 一世を終えし人の

いかに多きことぞ

道のべに 花咲けど見ず

こずえに 鳥鳴けど聞かず

せかせかとして 過ぎゆく人の

いかに多きことぞ


二度とないこの人生を

いかに生き いかに死するか

耳かたむけることもなく

うかうかとして 老いたる人の

いかに多きことぞ


川の流れにも 風の音にも

告げ給う声のあることを知ろうともせず

金に名誉に地位に 狂奔し終わる人の

いかに多きことぞ

生死事大無常迅速

時人を待たず ああ・・・


「見よ見よ、臘月(十二月)尽く」

若い時は時間がたくさんあるように思えましたが、「先が見える」歳になって「時間の貴重」さを感じます。


「生死事大、無常迅速」については


ある僧が関山慧玄禅師の庵(現在の妙心寺)にやってきて、

「私は〝生死事大、無常迅速〟と気づき、一日も早く人生に決着をつけたくて、和尚の処に参りました」

と言った。

そのとたんに禅師は、

「ワシのところに生死などはない」

と言って、棒をもって追い出したという。

…『正法山六祖伝』より


時間がないことに気づいたのに、追い返すなんて酷い!

けれど、時間が無いことをわかったとして、何をしたらベストなのでしょうか?

その答えを人に聞いて回ることでしょうか?

まさに「無事是貴人(外に求めるのではなく自己を探れ)」と禅師は言いたかったのかもしれません。

また関山慧玄禅師にはこんな逸話も残っています。

当時、禅師の妙心寺の伽藍は相当古かったのか随分と傷んでいたようで、ある雨の日に雨漏りがした。

「おーい、雨漏りだ。急いで何か雨水を受けるものを持ってまいれ」

住職の関山禅師は小僧たちに声をかけた。

はいっ、と返事をした小僧たちは、蜘蛛の子を散らしたように雨を受けるものを探しに行った。

しばらくすると他の小僧たちも戻ってきた。

桶など、それぞれ何かしらの雨受けになるものを持参している。

小僧らは雨漏りをしているところへ近寄りそれらを置こうとしたが、しかしその場所にはすでにザルが置かれていた。

えっ?……ザル?

「なんでザルが置いてあるんだ」

「ザルで雨を受けることができるもんか」

「誰だ、こんな無駄なものを持ってきたやつは」

小僧らはザルを持って一番最初に戻ってきた小僧を口々にバカにした。

そんな小僧らの言動を黙って見ていた禅師は、すっくと立ち上がって小僧たちの傍へ歩み寄った。

そして、ザルを持ってきた小僧にこう言った。

「よくザルを持ってきたな。これを待っていたんだ」

ザルで雨を受けることができるか、このバカ者!と叱られるものとばかり思っていた他の小僧らは、禅師の言葉に驚いた。

なんでザルを褒めるんだろう?

ザルの編み目から雨がこぼれていってしまっているのだから、ザルを置いたところで無意味なのに。

小僧らは納得がいかない。

すると関山禅師は呆然と突っ立っている他の小僧らのほうを向いた。

「お前たちは何を持ってきておるのだ、バカ者!」

驚いたことに、桶などを持ってきた小僧らが、逆に叱られてしまったのである。

この場のシーンを思い浮かべると思わず笑ってしまいます。

ちゃんとした雨水受けを持ってきた小僧さんの「冷水を浴びたような」雨水顔が浮かびます。

https://youtu.be/ipT3zIR_UOs?si=Mg2m3sZWDbJX0Ar1
ざるは水切りにも使えますから、水を切る(断つ)、なんてトンチ?

わかりやすく同じことを言っているお経のお話があります。

「雑宝蔵経(ぞうほうぞうきょう)」にあるお話です。

ある時、たくさんの動物が棲む山が火事になりました。

動物たちは力を合わせて火を消そうとしました。

しかし、燃え盛る火の前に、動物たちは火を消すことを諦めて、山から逃げ出します。

焼き尽くされていく山を見て呆然としていましたが、仲間の小鳥がいないことに気づきました。

逃げ遅れたのかと心配になりました。

すると燃えている山の上の方を、小鳥が何度も行ったり来たりしているのが見えました。

小鳥は近くの池に飛び込み、ずぶ濡れになった体で舞い上がり、巨大な炎の上で、翼についたわずかばかりの水滴を落としているのです。

小鳥の体では、いくらずぶ濡れになったとしても、たかが知れた水の量だし、現場に辿り着くまでにも、水は乾いたり飛んだりしてしまいます。

消火活動に充てられる水は、それこそ雀の涙程度でしょう。

動物たちは小鳥に言いました。

「馬鹿なこと、無駄なことはやめなさい。

あなたの小さな翼から落ちる水滴で、あの大きな炎を消せるわけはないでしょう」

煙と炎で真っ黒になった小鳥は言います。

「私が運ぶ水滴で、山火事を消せないのは、十分承知です。

私のやっていることは、馬鹿なこと、無駄なことかもしれませんが、この火事を見て、何もしないではいられないのです。

消すことは出来なくても、消さなければという自分の想いに正直でありたいのです」

その時、これを見ていた天の帝は、小鳥の真摯な想いに打たれ、大雨を降らし山火事を鎮めたという話です。


もし、雨漏れでなくお寺が火事になり、「おーい、火を消すものを持つってきてくれ」と言われた時、いくら性能のいい消火器をもってきても、「時間が経ってしまったら」、お寺は丸焦げになり、消火器も意味がなくなってしまいます。

それよりも、とりあえず何もないなら、土でもかけて消す努力をしたほうがいいのです。

ざるを持ってきた小僧さんが褒められたのは、臨機応変、当意即妙、啐啄同時の心だったのではないかと思います。

勝海舟は『行蔵は我に属す。毀誉は他人の主張』といっています。

「行いは自分が決定することである。
その成否や理非を論じるのは他人の仕事である」

結果は…どうなろうと知らんと言っているのですね。

人生はもう残り少ないのだから、多少の他人迷惑は承知のうえで、自分の思うままに生きたいものです。

結果、もしかしたら、天をも動かすかもしれません。

他の人からは愚かと思われようとも、運に命を預けるのではなく、運に自から命じ「運命」を切り開いていきたいものです。

…と老害を振りまいている老獪から、未来のある若い人たちに言いたいですw

本日も、花に食に

「美食同源」を堪能してきました。




長々と妄想をお読みいただき、ありがとうございましたm(_ _)m