茨城のお祭り ③ | パーマン三号のブログ

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8:56
【大宝八幡宮】へ到着。

《見所、ポイントまとめ》
・関東最古の八幡様
・気長足姫命(おきながたらしひめのみこと) 応神天皇の母の別名
・「タバンカ祭り」
起源は、応安三年(1370年)大宝寺別当坊の賢了院が出火した際に、畳と鍋ぶたを使って火を消し止めたという故事を戯曲化したのに始まる
★「ひとつもの神事」★
秋祭りの晩、夜道を無言で進む和装の集団。その行列には、ひとつ目の奇妙な人形が厳かに掲げられている。 飛鳥時代から続く古社に伝わる謎の祭礼「ひとつもの神事」には、失われゆく日本古来の宗教観と、今も息づく疫病鎮めの願いが秘められていた。
・「青龍権現社」という小さな祠がひっそりと建っている。青龍権現とは、かつて付近の大宝沼に棲んでいたとされる“白い大蛇”を指し、その霊を祀っているのだ。

☆当地の伝説☆
昔々、毎年秋になると大蛇が近郊の村の家に白羽の矢を立て、そこに住む若い娘を人身御供として差しだすという風習が行われていた。
生け贄を拒否すると大蛇が怒り、嵐や洪水を引き起こして作物が穫れなくなるため、人々は従うしかなかった。
そこであるとき、村人たちが集まって考えた末“ひとつ目の藁人形”を作って娘の代わりに大蛇に差しだした。
すると驚いた大蛇は沼から退散し、村々には平和が訪れ、稔りが続いたという。
ひとつも神事は、この大蛇伝説に由来する神事なのです。

「重軽石」
・拝殿右手前にある。参拝前後で重さが変わるという不思議な石。 参拝前にこの石を手にとって重さを感じ、御神前で祈願後、参拝前と同じように手に取って軽く感じれば願いが叶うという。 重く感じた場合はその重さに神の威光を感じ、さらに願うといいとされる。


書かれている通りに前後に持ちあげてみましたが、重さは変わりませんでした。

どうゆうこと?


山門をくぐると、両サイドに狛犬さんが何十組もずらりと勢ぞろい。

流石、最古の八幡さま。




手水舎には、龍、蛙、亀、さらに河童、七福神、の石像が、これまたずらりと勢ぞろい。





参道から手水舎だけでもかなりのパワースポット…を通り越してパワハラスポット。

とどめが、拝殿脇の「平成狛犬」。



別名「撫で狛犬」、悪い所を撫でて下さい、と裏に説明書きがありました(あぁ、お賓頭盧さまね)


それを知ったときには、時既に遅く頭を撫でてしまっていました。

これで天才を通り越して盆栽になってしまう…まっ、いいか。

本殿裏には「あじさい小道」と言う鎮守の森のなかを通る道があり、あじさいの頃には最高の道になるのでしょう。







ひととおり見学、参拝し終わった後に、境内を掃除していた初老の男性から

「ここは鐘が自由につけるのです」

と鐘撞堂へ案内されました。


鐘の前で

「何回でもどうぞ」

と言われので

「じゃぁ、煩悩の数だけ鳴らします」

といったら、苦笑いされました。

この人ならやりそう、と思われたのかもしれません(するどい、ただの清掃員ではないな)

しかし

既に参拝は終わらせているので、もしやこれはタブーの「戻り鐘」になるのでは?

「戻り鐘」は出棺の時に鐘を鳴らす「出鐘」になるので縁起が悪いとか、参拝した功徳がチャラになると言われています。

せっかくの神樣からのお誘いなのか、それとも功徳をチャラにさせる悪魔の誘惑なのか…

自分の信仰を曲げるか、それとも只者でない清掃員の好意をいただくか…

あっ、そうだ!

それなら、もう一度参拝すればいいんじゃん?

ここで八幡さまに、一休さんが舞い降りたのでした、チ~ン。

https://youtu.be/IOuV1_gm2ro?si=c4pFjrTAGMMv7V1b


鐘を思いっきり「一回」鳴らした後に、再度社務所へ行き、たくさんある御朱印のなかから、「ひとつもの神事」の御朱印をいただきました。

この御朱印には、ちゃんとひとつ目の藁人形が書いてあり、「目図らしい」コレクションとなりました。


https://youtu.be/CuMfiMF30n0?si=Udszdxfj0uB0Vq3b


やはり「最古の八幡」と言うだけあって、見所満載で野村萬斎、日本万歳です。






ところで

お寺さんや神社にたまに「窯」があるのを見たことありませんか?

もちろん塩釜神社とかではなく、普通の寺社です。

毎日参拝するお寺さんにも、既に錆びついた「破れ窯」が重ねて放置されていて、いつも疑問に思っていました。

ここの神社にも手水舎の裏に隠すように大きな窯が置いてありました。

もちろん何の説明書きもなく「放置状態」です。

もしやこれはあの「功徳風呂」では、と思いました。

さかのぼること室町時代に、寺や神社、幕府などが一定の間隔で地域の住民に「風呂」を振る舞ったらしいのです。

もちろん立派な風呂の施設を作れる寺社もあったでしょうが、ほとんどが特設の「五右衛門風呂」だったのではないかと思もわれます。

またお寺さんでは葬式の後に穢れを落とすために風呂を提供していた、とも言われています。

これを裏付けることが、ここの前に訪れた「高道祖神社」の言い伝えにありました。

それは

『近くにあった「道祖の池」の水でわかした風呂に入るとご神徳あらたかということで境内に風呂が設けられた』

これは「功徳風呂」のことを言っていると思います。

特に式内社クラスの古い寺社に、破れ放置窯がみられるのは、功徳風呂の窯だったのではないか、とひらめきました。

一休さん、八幡さま、そして撫で狛犬さま、そしてそして道祖神さま、皆さんのおかげで、素晴らしい妄想を楽しませていただきました、ありがとうございましたm(_ _)m