京都の春夏秋冬とプラスα

京都の春夏秋冬とプラスα

京都・奈良・滋賀の春夏秋冬とプラスαをウォーキングで探訪する

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残暑が厳しいこの時期になると、関西ではTVや新聞が必ず報じるのが米原市の地蔵川の梅花藻(ばいかも)。

今年も梅花藻の見ごろが8月下旬までとの報道を受け、巣篭り生活から飛び出し24日(月)に名神高速で現地に向けマイカーを走らせた。京都から最寄り地の米原市醒井(さめがい)まで車で約1時間程度。JRでの最寄り駅は東海道線醒ヶ井駅で、そこから地蔵川までは徒歩で約10分程度。

〔2020年8月24日撮影〕
梅花藻って?

キンポウゲ科の沈水植物で、初夏から盛夏にかけて開花し8月末頃に見ごろを迎える。

梅の花に似た五弁の花をつけることから梅花藻という名がつけられたと言われている。

 

 醒井宿(さめがいしゅく)の郷を流れる地蔵川

旧中山道の61番目が醒井宿で、今も風情ある町並みが続いている。中でも全国でも珍しい宿場を仕切った「問屋場」が昔のままの姿で残っている。この宿場町に沿って地蔵川が流れている。

 □水温14℃前後を保つ地蔵川に群生する梅花藻

梅花藻は水温が年間14前後の清流にしか生息しない と言われている。ならば、この水温の源泉は?の疑問を持ち出かけたが現地で地蔵川を見て納得!

 地蔵川の源泉は、醒井宿の南方に位置する霊仙山(標高1084)に降り注いだ雨が長い年月をかけて地下を流れ、その麓から湧き出ている「居醒の清水(いさめのしみず)」。

 

 

 

 

 

中世には「自由・貿易都市」を形成し、わが国の経済文化の中心地として繁栄してきた堺市。最近では、5世紀中頃に築造された仁徳天皇陵古墳等世界文化遺産登録でも注目されている。

そのような堺で生まれ、文化面で名を残した千利休の屋敷跡与謝野晶子の生家跡を巡った。二人が生き、活躍した時代はおよそ400年程の時間差があるが、両者が生まれ過ごした実家は今で言う同じ町内会の近距離にある。


□ 千利休の屋敷跡 所在地:堺市堺区北旅籠町西1-3-22
千利休は安土桃山時代の1522年(大永2年)に堺の倉庫業商家〔屋号は「魚屋」(ととや)〕に生まれ、茶人として織田信長豊臣秀吉に仕えた。茶人として絶頂期にあった70歳の時に、突然に秀吉の怒りに触れ切腹を命じられる。そうした晩年から屋敷跡には茶の湯の面影を残す「椿の井戸」が残っている。

椿の井戸には多くのミネラルを含む椿の炭を底に沈めていたと言われ、その名前の由来にもなっている。この井戸は枯れることなく今でもポンプで汲み上げられている。


□ 与謝野晶子の生家跡 所在地:現在の国道26号紀州街道(大道)とが交差するところ。
1878年(明治11年)12月に堺の老舗和菓子屋「駿河屋」に生まれ、明治から昭和にかけて活躍した歌人・作家・思想家。23歳の1901年(明治34年)には東京に移り住み、。後に歌人の与謝野鉄幹と結婚し1942年(昭和17)に64歳で没。

駿河屋旧紀州街道に面していたが、戦後になって街道が西に拡幅されたため、店の敷地の大部分は現在の紀州街道大道筋〕になっている。生家跡を偲ぶものとして道路の西側歩道に跡碑が建てられている。

 

滋賀県のエリアをびわ湖を中心に、湖北・湖南・湖西・湖東という馴染みの呼び方がある。中でも湖東と湖南の山麓には錦秋の中に佇む古刹が多い。

一昨年と昨年に次いで今年の錦秋の美も湖東に求め、西明寺(さいみょうじ)・金剛輪寺(こんごうりんじ)・百済寺(ひゃくいじ)の三山を先日(18日)に訪れた。三山のいずれの寺において11月に開花する不断桜が植えられており、紅葉とのコラボレーションを楽しめた。

▽ 錦秋の湖南に佇む古刹の三山を一日で巡る
 https://ameblo.jp/taka-hannari/entry-12331194599.html
▽『かくれ里・石の寺』での石庭と錦秋の教林坊を探訪
  https://ameblo.jp/taka-hannari/entry-12429371063.html

湖東三山の所在地とアクセス
西明寺・金剛輪寺・百済寺は、いずれも彦根市から大阪府・枚方市に至る一般国道307号沿いで、湖東の連なる山々の麓に抱かれている。紅葉シーズンにはJR彦根駅から三山を結ぶシャトルバスが出ているが、運行便数・時刻表と各寺の最寄りバス停の位置からスケジュール面で制約が多い。このためシャトルバスによる一日周遊は避け、京都からの移動と三山へのアクセスにはマイカーを使用した。

□ 本堂と三重塔が国宝の西明寺  所在地:犬上郡甲良町大字池寺26
平安時代初めの834年に仁明天皇の勅願により開創。米CNNの「日本の最も美しい場所31選」や「日本100の古寺」にも選ばれた天台宗の古刹。本堂は鎌倉時代初期に飛騨の匠が建立した純和様建築で釘を使用していない。滋賀県では国宝指定第1号の建物。

 

三重塔は鎌倉時代後期に飛騨の匠が建立した純和様建築で本堂と同様に釘を使用していない。

高さは23.7m


□ 血染めのもみじで知られている金剛輪寺  所在地:愛知郡愛荘町松尾寺874
奈良時代の741年に聖武天皇の勅願て高僧・行基により開山された天台宗の古刹。大悲閣本堂(国宝)前の陽射しを浴びたもみじは、その鮮烈な色合いは圧巻であった。なお、麓の総門から本堂に至るまで続くの参道は、長くてキツイ石段が続くため、本堂近くの駐車場まで車を乗り入れた。

二天門(重文)は本堂より後の室町時代の中頃に建立。門の両脇には持国天増長天が立つ。正面に吊り下げられた一対の大草履は、昼間に仕事を終えた二天のもので、夜間は草履を門の脇に脱いで立ちながら休まれる。この門を通過する参拝客が健脚・長寿の願掛けを行う。草履は約10年毎に新調されるが、今のものは今年の10月に寄進。

□ 甲子園球場20個分の広大な境内にある百済寺  所在地:東近江市百済寺町323
今から1400年以上前の606年(推古14)に聖徳太子の勅願により創建された滋賀県で最古の天台宗の寺院。しかしながら、安土桃山時代の1573年には、織田信長の焼き討ちによって全山の堂塔を焼失。本堂・仁王門・赤門は、江戸時代初期の1650年に再興され現在に至っている。
山腹を背にした庭園・遠望台は、池泉回遊式で、西はびわ湖を越え55㎞先の比叡山まで広大なパノラマ遠望が広がる。

また、歴史的情緒に溢れる境内は、最近では「関ケ原」に代表される映画や時代劇ドラマ等のロケ地として使われている。

京都の市街地から約12キロの西で愛宕山の麓に水尾の里があり、行政上は京都市右京区嵯峨に入る。愛宕山の伏流水と寒冷な気候が香り高い上質の柚子(ゆず)を育み、水尾は古くから日本での柚子発祥地として知られている。

この水尾の里で地域起しの一環として、2010年から住民有志が休耕田を活用しフジバカマ(藤袴)の栽培保全活動を行い、その開花時期に合わせて鑑賞会が毎年開催されている。ちなみに、今年(2019)は9月27日(金)~10月2日(水)の期間で開催され、先月30日に「フジバカマ鑑賞会」に参加した。
▽関連ブログ:絶滅危惧種の「藤袴」と渡りの蝶「アサギマダラ」
       https://ameblo.jp/taka-hannari/entry-12081906779.html


□ 自生のフジバカマの減少と栽培保全活動
秋の七草(はぎ・ききょう・くず・ふじばかま・おみなえし・おばな(すすき)・なでしこ)の一つであるフジバカマは、「源氏物語」でも描かれているように日本に古くから河原や野辺に自生。しかし、近年の環境変化で姿を消しつつあり、環境省準絶滅危惧種に指定されている。

こうした状況下で、水尾の里では地域起しの一環としてフジバカマの保全に向け、年間を通じた畑での栽培活動が行われている。

□ フジバカマへのアサギマダラの飛来と共演
フジバカマの花蜜には蝶が鳥類等の天敵から身を守る防御物質が含まれ、これを求めて渡り蝶アサギマダラが飛来する。アサギマダラはアゲハ蝶ぐらいの大きさで、日本列島を縦断し更には台湾まで約2,200㎞以上を移動するとも言われている。春は南から北へ、秋は北から南へとまるでツバメのように海山を渡る。

鑑賞会に訪れた当日(30日)は好天に恵まれ、フジバカマの畑には多くのアサギマダラが花蜜を求めて飛来し、畑の中で花と蝶のコラボの鑑賞を楽しんだ。

□ 水尾の里へのアクセス
水尾の里には、府道50号京都日吉美山線が通っているが、この道路には定期バスが走っていない。これを補う足として、水尾の自治会JR保津峡駅から集落まで中型バスを運行している。このバスでの所要時間は約15分で、フジバカマ鑑賞会期間中には増便される。筆者もこのバスを利用した。

 

京都市では夜間の魅力的な新たな景観づくりの策定に向け、その社会的実験の第1弾として三条大橋ライトアップが13日から3日間の期間で行われている。

この試験的なライトアップは午後7時~9時に、橋の南側の手すりや支柱、橋脚に向けて電球色の光の照明で照らされる。最近の一般の街路照明はLEDなどの白い光が多く、照明に温かみが欠けるて点が課題とされている。

今年は13日が中秋の名月で、三条大橋から見上げる東山の夜空の雲間から名月が顔を出していた。

関連ブログ:三条大橋・木製欄干の腐食が進み改修へ
       https://ameblo.jp/taka-hannari/entry-12422454835.html

 

亀岡市の郊外に本尊に不動明王を祀る谷性寺(こくしょうじ)がある。明智光秀はこの不動明王に深く帰依し、たびたび戦勝祈願を行い加護や功徳を得た。光秀が生前にこの寺を信仰していた関係で境内には光秀公の首塚が建てられている。また明智家の家紋は桔梗で、光秀の供養のため境内にはいつからかききょうの花が植えられ始めた。現在では周辺の畑まで広がり、数種類のききょうの花が咲き誇ききょうの里として親しまれている。

□ 明智光秀と谷性寺とのつながり   所在地:亀岡市宮前町猪倉
谷性寺は平安時代の創建で真言宗の古刹。大覚寺派に属し本尊は不動明王で、明智光秀はこの本尊を深く帰依した。本能寺に織田信長の襲撃に際しては戦勝祈願し、その功徳を得て本懐を遂げた。

秀吉との山崎の戦いに敗れ、坂本城に向かう途中の山科・小栗栖で民衆に襲われて死亡。その介錯をした部下の手でこの寺に首が運ばれ、懇ろに葬られたと伝わる首塚がある。


□ 各種のききょうが咲き揃う花の里
谷性寺門前の約7,000 ㎡の畑に約5万本の各種ききょうの花が咲き揃う観光スポット。今年(令和元年)は6月29日(土)~7月21日(日)の期間ききょうの里がオープンした。ちなみに、筆者は7月10日に訪れた。

ききょうの花の色はしか知らなかったが、ピンク色の存在に加え八重のききょうも初めて見た。

ちなみに花言葉は、紫:気品、白:清楚、ピンク:思いは叶う。

□ 所在地とアクセス

 

世界文化遺産登録を間近にした仁徳天皇陵古墳をこの4月に探訪した。今から1600年ほど前の古墳時代に造営された墳墓は、現在では高い木々が生い茂り築造当時の外観を目にすることはできない。近つ飛鳥博物館には、葺石(ふきいし)の斜面と垣根のように並べられた埴輪で構成される築造当時の墳丘が復原されている。
▽ 関連ブログ:世界文化遺産登録を待つ「仁徳天皇陵古墳」を三方向から探訪
 https://ameblo.jp/taka-hannari/entry-12455248803.html

□ 大阪府立・近つ飛鳥博物館  所在地:大阪府南河内郡河南町大字東山299 
近つ飛鳥」は712年に著された古事記に由来する地名。難波(なにわ:大阪の古称)から見て奈良にある本来の飛鳥を「遠つ飛鳥」、それよりも近いこの地域を「近つ飛鳥」として便宜上呼ばれている。

史跡「近つ飛鳥風土記の丘」公園内の一角に位置し、お互いに散策路で往来できる。この建物は、安藤忠雄建築設計事務所の設計で平成3年(1991)に竣工し、構造は鉄骨鉄筋コンクリート造で地上2階・地下1階。

建物の屋上は階段状の広場になっており、コンサートや演劇等の多様な使い方ができる。建物を上空から見ると前方後円墳のかたちをしているところから平成の古墳とも呼ばれることもある。安藤忠雄氏の代表作のひとつで、日本芸術大賞朝日賞・建築業協会賞・第6回公共建築賞を受賞している。

□ 仁徳天皇陵の復原模型
近つ飛鳥博物館は、5世紀頃の古墳文化の公開・展示・研究のセンターとなることを目的としている。この一環として古墳文化のシンボルとしての仁徳天皇陵古墳の復原模型が展示されている。

仁徳天皇陵の墳丘は全長486mでその復原模型縮尺150分の1。築造当時の天皇陵古墳及びその周辺の中小古墳や古墳造りに携わるムラなどが再現されている。

 

 

滋賀県東南部に位置し、忍者や信楽(しがらき)焼き等で馴染みの甲賀の里がある。この地で平安時代から守り、守られてきた三大仏像があり、これの寺を巡る拝観が平成25年11月から始められている。これら三大仏像とは、大地寺(だいちじ)の釈迦如来、櫟野寺(らくやじ)の薬師如来十楽寺(じゅうらくじ)の阿弥陀如来で、いずれも如来の坐像でその像高は日本最大級

その中で、櫟野寺薬師如来の拝観は昨年秋の大開帳期間中に済ませており、残りの二カ所の大地寺十楽寺を先日に拝観した。

*画像は三大仏巡りのパンフレットより引用。
三大仏像の所在地とアクセス
悟りを開いた者という意味の如来は仏の世界では最高位にあたり、人々を教え導き救済する仏さまのリーダー。過去を司る釈迦如来を祀る大地寺、現在を司る薬師如来を祀る櫟野寺、未来を司る阿弥陀如来を祀る十楽寺は、それぞれ離れた場所にあり三カ所を一日で回ることは難しい。このため今回の大地寺と十楽寺の拝観にはマイカーを使った。

□ 蓬莱庭園の大地寺  所在地:甲賀市水口町名坂1168
奈良・天平時代に高僧・行基が開いたと伝わる臨済宗の古刹。本尊は行基が一刀三礼〔仏像を彫るとき、ひと彫りごとに三度礼拝すること〕で刻んだとされる丈六の釈迦如来坐像。仏像の高さの基準の一つに、釈迦の身長一丈6尺(約4.85m)がある。坐像はその大きさが半分になるので「丈六像」と呼ばれている。

書院前の蓬莱庭園は、江戸時代に水口城を築いた小堀遠州が作庭したと伝わる枯山水式庭園。2段のサツキの大刈込で大波小波と宝船を表現。

□ 摩耶夫人の十楽寺  所在地:甲賀市土山町山中351
創建時は天台宗であったが信長の兵火に会い焼失。江戸時代初めの寛文年間(1661~)に浄土宗に改め、知恩院直轄の末寺になり現在に至る。本尊は日本最大級の丈六阿弥陀如来坐像。

お釈迦様が誕生された姿の「摩耶夫人立像」は室町時代の作とされ、法隆寺とこの寺の国内に2カ所しかない珍しい仏像。

 

 

400余年の歴史と伝統を伝える南座。昨年11月に、2年9か月に及ぶ耐震補強改修工事を経て新たに開場している。歴史ある外観はそのままに、内装設備が全面更新。年間を通して幅広い文化を国内外へ発信する劇場へと新たに生まれ変わった。

この新開場記念の一環として「京都ミライマツリ2019」が開催(2019.5.12~5.25)、その昼マツリを楽しんだ。

このイベントの特長は、一階の客席椅子や花道が全て撤去され、そこに屋台やフードコーナーが設けられている会場のレイアウト。ここに南座の新たなイベント展開の意気込みを感じとった。

舞台のスクリーンに演出された歌舞伎の技法「納涼滝」のプロジェクションマッピングを眺めながら、ドリンクや老舗・人気店の屋台飯に舌鼓を打った。


▼通常の1階客席の様子

▽関連ブログ:400余年の歴史を伝える南座の舞台に初めて立つ
       https://ameblo.jp/taka-hannari/entry-12060969320.html

 

来年(2020)の大河ドラマは、戦国時代の智将・明智光秀を主役とする「麒麟がくる」。麒麟(きりん)は、王が仁のある政治を行う時に必ず現れるという聖なる獣と言われる。
このドラマでは明智光秀麒麟になぞらえ、彼の前半生に焦点を当て、その生涯を中心に戦国の英傑たちの運命の行く末が描かれる。その光秀にゆかりの亀岡市で、5月3日に恒例の「亀岡光秀まつり(明智光秀公武者行列)」が開かれ、見物した。

□ 亀岡市と明智光秀
亀岡市は京都市の西に隣接し、京都市・宇治市に次ぐ京都府第3の都市で人口は約8万8千人。京都駅からJRで20分ほどの位置にあり、京都市のベッドタウンとしての性格を強めている。更に、サッカーやラクビーの専用球技場・京都スタジアム(仮称)が2020年春のオープンを目指して建設が進められている。こうした今の亀岡市の礎を築いたのが明智光秀

□ 城跡として残る丹波亀山城
光秀は16世紀(戦国時代末期)に織田信長に仕え丹波亀山城を築き、ここを拠点に丹波を平定する。本能寺の変に伴う光秀の死後も亀山城は歴代城主により整備・拡充が進められるが、明治時代の廃城令に伴い明治10年に天守等が解体され、今は城跡や堀跡に往時の姿を残している。三重県にある同じ地名との混同を避けるため、明治2年(1869)に当初の亀山の地は亀岡に改名された。

□ 第47回・亀岡光秀まつり/明智光秀公武者行列
光秀の遺徳を偲び、亀岡市民あげて顕彰する市内最大規模の春まつりで、毎年5月3日に開催され今年で47回目を迎えた。

この祭りの呼び物は明智光秀を中心とする武者行列で、総勢約500人の規模で繰り広げられた。

行列は13時10分頃に市役所前を出発し旧城下町界わいを行進し約1時間後に丹波亀山城跡に到着し休憩。午後15時頃に城跡を出発し15時30分頃に南郷公園に到着し行進を終える。

行列の主役は明智光秀も含め馬に乗る次の5人の武者
明智秀満:光秀の重臣 ・斎藤利三:秀満と並ぶ重臣・明智治右衛門:叔父の明智光久の子で重臣の一人。・溝尾庄兵衛:光秀の流浪時代からの家臣。

更に、光秀の正室・煕子(ひろこ)と三女の細川玉子も輿(こし)に乗り行列に彩りを添える。ちなみに、玉子は信長の勧めで細川忠興の正室になり、後にカトリックに入信しガラシャの洗礼名を受ける。