「愛」は「水」こころを潤すもの
札幌での初雪を体験しました。
数日前、園庭で子どもたちとふわふわ飛ぶ「雪虫」を追いかけっこしたところでした。
自然の営みは不思議に満ちていますね。本格的な雪の時期はまだ先のようですが、
皆様のご生活の安全が守られますように。おかげで思ったより親知らずの抜歯は
上手く終了しました。励ましの声をかけてくださった方々、有難うございました。
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さて、聖書に「愛」が「水」にたとえられているところの2回目です。
前回「水」は大変貴重で、わたくしたちの生活、いのちにとって欠かすことのできないもので、その水に「愛」がたとえられていることをご紹介しました。
聖書の言葉に「イエスは答えて言われた。『この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。』」(ヨハネ福音書4章13-14節)とあるのですが、ここに記されている「渇き」は「こころの渇き」を意味しています。おいしい「水」が「体の渇き」を潤すように、神様の愛が人の「こころを潤す」ことが書かれているのです。
このヨハネの福音書4章には、身も心もボロボロになっていた一人の女性とイエスとの交流の物語が記されています。紙面の関係ですべてはお伝えできないのですが、あらすじを少しお伝えします。
この女性は「サマリア」という地域に住んでおり、ユダヤ人にとっては「避けて通る地域」「敵対している地域」でした。また、さまざまな事情からこの女性は人目を避けて、確かに現況は人々から後ろ指をさされる生活をしており、いろいろな偏見の中、共同体からも村八分状態であり、寂しさ、孤独、孤立感の中で暮らしていたことが伺えます。その女性のこころは、砂漠のように「渇いて」いたのです。
しかし、イエスはそのような女性に「天の神様は間違いなくあなたを大切に思っている」ということを「水」をたとえに語られたのでした。「砂漠」のようであっても「井戸」を掘り当てるなら、そこは「オアシス」となるのです。すべての人のこころにまだ掘り当てられていない「愛の泉(井戸)」があるということが語られている物語です。
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『愛』は『水』
朝晩がすっかり寒くなりました。
本州から来た者にとっては冬が来た感覚なのですが、
北海道の方々に言わせると「まだまだ」なのですね。
季節の変わり目どうぞ、ご自愛ください。
私事ですが、来週、口腔外科で親知らずの抜歯をする予定です。
少々やっかいな生え方をしている為、抜歯方法について、
「あごの骨を少し削って・・・」というような説明を受けると、
いやでいやで仕方がないのですが、
園児から「園長先生がんばって」
「痛くないよ」「歯医者さんは怖くないからね」と
励まされています。(笑)
その時、ふと思いました。
そのような園児たちのやさしい言葉は、きっと日ごろ親御さん方が
お子さんたちに語りかけておられる言葉なんだろうな、
それをお子さんたちが真似て、わたしに言ってくれているのだろうな、と。
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さて、「愛は○○」シリーズ、こちらを読んでくださっているみなさまの
ご家庭がより祝福されることを願って、続けてまいりたいと思います。
今回は聖書に「愛」が「水」にたとえられているところをご紹介します。
ところで、「水」はどれだけ貴重でしょうか。
これは、レストランで「無料の水」が何杯も飲め、「水」が豊かにある日本では、
少し、その大切さ、有難さが伝わりにくいかもしれません。
中東のある国では、「ガソリン」の方が「水」よりも安いところがあります。
ほとんどの国では、「水」は「お店で買って飲むもの」のようです。
では、ここで少し、もしも「水」がなくなったらと考えてみてください。
わたくしたちの生活はどれだけ不自由になるでしょうか。
朝、顔を洗うところから始まって、トイレ、料理、家事、入浴・・・といった日常生活が
とたんにマヒします。また、園庭でこけて、すり傷ができてしまった園児は、傷口を
まず「水」で洗います。ヤケドをしてしまったら「水」で冷やします・・・
そして何よりも、わたくしたちの体は成人で約60%(乳幼児は70%)が「体液(水分)」
で構成されています。「脱水」症状になると、酸素や栄養素が体内に行き渡らなくなり、
老廃物を排出することができなくなるなど、「命」にかかわる重篤な出来事になってしま
います。
「水」は大変貴重で、わたくしたちの生活、いのちにとって欠かすことのできないもの
なのです。聖書には、そのような「水」に「愛」がたとえられているのです。
聖書のことば「イエスは答えて言われた。『この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、
わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。』」
(ヨハネ福音書4章13-14節)
ここに記されている「渇き」は「こころの渇き」を意味しています。
おいしい「水」が「体の渇き」を潤すように、神様の愛が人の「こころを潤す」こと
が書かれています。
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本日もお読みくださって、有難うございます。 今日もみなさまの一日が良い日で
ありますように。 神様のお守りが豊かにありますように。
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【北海道民となりました】
ありがとうございます。
今年度4月より、異動の辞令が降りまして
北海道、札幌に転勤となりました。
北海道、札幌のみなさま
どうぞ、よろしくお願いいたします。
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じゃがいもをさっそくいただきましたが
さすが北海道のじゃがいも。
味が全然違いますね。
美味しかった。
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新年度も神様のお守りと祝福がみなさまの上に
豊かにありますようにお祈りしています。
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【弱い時にこそ強い】
介護職でがんばる人への聖書の言葉
本日ご紹介するのは下記の言葉です。
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「すると主(神)は、『わたしの恵みはあなたに十分である。
力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。
だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ
大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」
(新約聖書 第二コリント人への手紙12章9節)
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この聖書の箇所はパウロという人が書きました。
彼は「喜んで自分の弱さを誇ろう」と言っています。
よく考えると不思議な言葉だと思われませんか。
一般に人は「弱さ」を隠そうとするものではないでしょうか。
自分の「弱さ」「弱み」なんて、とてもとても他人に見せられる
ものではない・・・というのが自然だと思います。
しかし、彼はそれを隠すことなく「誇る」のです。
それができたのは、「神様の愛」「恵み」を
理解したからだと書いています。
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さて、介護の現場というのはいろいろな意味で
「人間の弱さ」があからさまになるところではないかと
思うのですが、いかがでしょうか。
しばしば、その弱さと弱さが混迷し、衝突、戦ってしまい、
互いに傷つき、疲弊してしまう・・・自己嫌悪に陥ってしまう
という悪循環が生まれます。
介護の現場は人の「弱さ」を隠せない現場
とも言えるでしょう。
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パウロは、また次のようにも言っています。
「それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰り
の状態にあっても、キリストのために満足しています。
なぜならわたしは弱いときにこそ強いからです。」
(聖書第二コリント人への手紙12章10節)
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この秘訣を知っていただくと、自分自身が
また、ご利用者の方との関係が随分楽になりますよ。
自分の弱さ、相手の弱さ、すべてひっくるめて
支え守っておられる存在があること、
人間の「弱さ」を理解してくださるキリストが
おられる、というのです。
スヌーピィの原作者であるチャールズ・M・シュルツは
次のような励ましの言葉を書いてくれています。
自分の「弱さ」が露呈すること、
見せつけられる経験はとても辛いものです。
しかし、そこを天の愛の神様にゆだねることができたなら
かけがえのない自己成長の場になるのです。
ぜひ、神様の愛と赦しがあることをお信じくださり
勇気をもって「自分の弱さ」を見つめていただければ
と思います。
その時、人は本当の意味で「強く」なれるのです。
自分の力によって「強く」なるのではなく、
神様の「愛」と「赦し」「恵み」によって
「強められる」のです。
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「この大祭司(キリスト)は、わたしたちの【弱さ】に同情できない方
ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたち
と同様に試練に遭われたのです。」
(新約聖書 へブル人への手紙 4章15節)
天の神様はわたしたちの弱さをすべて理解してくださり、
それを赦し、支えてくださるお方なのです。
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本日もお読みくださって、有難うございます。
今日もみなさまの一日が良い日でありますように。
神様のお守りが豊かにありますように。
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『小さい者の一人にしたのはわたしにしてくれたのである』
介護職でがんばっているみなさんへ
本日の聖書の箇所はマタイ福音書25章31-40節です。
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「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、
その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前
に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、
彼らをより分け、羊を右に、山羊を左におく。
そこで王は右側にいる人たちに言う。
『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時から
あなたたちのために用意されている国を受け継ぎなさい。
あなたたちは、わたしが餓えていたときに食べさせ、のどが
渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、
裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねて
くれたからだ。』
すると正しい人たちが王に答える。
『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を
差し上げ、のどが渇いておられるのを見て、飲み物を差し上げた
でしょうか。いつ旅をしておられるのを見てお宿を貸し、
裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。
いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、
お訪ねしたでしょうか。』
そこで、王は答える。
『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者
の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
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さて、唐突ですが、上記の箇所は、神の国(天国)が回復した
時の情景を象徴的に表現しています。
天国において創造主なる神様が人々に「宣言」されるという
ことですが、その内容を読んだ時、わたくし個人的には
皆様が介護の現場で、利用者の方に一生懸命接しておられる
日常を、その姿を重ねて思い浮かべます。
皆様は意識してはおられないかもしれませんが、
利用者の方に一生懸命接しておられる、一つ一つの業
働きを、天の神様は「自分にしてくれた」こととして
考えてくださる・・・というのです。
そのような意味で、皆様の働きは、とても尊いものなのです。
皆様の働きを通して、どれだけの人が慰めと平安を得ておら
れることでしょうか。
「神様の国(天国)」というものを前提に
その働きを見守っておられる神様の存在というものに
目を向けていただけたなら、幸甚です。
そのことが、みなさまの日々の働きの労をねぎらい
支えるものとなればうれしいです。
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【介護職でがんばる人への聖書のことば】
今、わたくしは、特別養護老人ホームで牧師をしています。
介護の現場で、一生懸命働くみなさんへ
毎日の働き、本当にお疲れ様です。
私自身、皆様が一生懸命働いておられる姿を見て
頭が下がります。
3K 4Kともいわれる過酷な現場、
ストレスも多く、過酷な状況の毎日だと
思います。
ひとつのものの考え方ですが、
少しでも気が楽になればという思いで
介護職でがんばるみなさまへ
聖書のことばをお届けできればと
思います。
もし、聖書の立場から、みなさまの働きを見るならば
本当に、みなさんの働きは、尊く、貴重な働きです。
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<聖書のことば>
「わたしの目にあなたは高価で尊い」
(旧約聖書 イザヤ書 43章)
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「わたし」とは聖書の神、創造主のことです。
この箇所は英語では「You are very important Person」
と書かれており、この箇所から「VIP」という言葉が
できています。
みなさんの働きで、どれだけの方々が助かっているでしょうか。
みなさまの働きはとても尊いものなのです。
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【あなたの労苦は決して無駄にはならない】
【介護職でがんばる人の聖書の言葉】
今日は新約聖書の【コリントの信徒への手紙 第一 15章58節】
をご紹介します。
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「主に結ばれているならば、自分たちの苦労が決して
無駄にならない」
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「主に結ばれているならば」とは
「愛の動機にもとずいているもの」
という意味です。
「無駄にならない」とは
「むなしくは終わらない」
という意味です。。
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介護の現場は、苦労が多いわりには、「報われ感」が
得にくい職場ではないでしょうか。
しかし、目に見えない神様が、皆様の働きを
見守ってくださっています。
人は気がついてくれないようなところ
みなさまが一生懸命やっておられるところを
見てくださっている存在があると
聖書は伝えています。
そのことを知っていただいたとき、
みなさまのなさったことは、
「必ず意味があるもの」となるのです。
「無駄にならない=むなしくならない」
とは、「意味が与えられる」ということです。
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【契約の宗教 ④-『契約書』と『契約実行の記録』】
みなさま、本日もこころのエステ・フィットネスに
お立ち寄りくださり、ありがとうございます。
ふと思えば、11月も半ばをすぎ
今年もあと 40数日・・・となりましたね。
寒さも増しております、みなさまどうぞ、
ご自愛くださいね。
************************
聖書とはどのような書物なのか・・・
わたくしは、神様が人類に残しておられる、
約束の書、”契約書”なのですよ・・・
とお伝えするようにしています。
聖書にアブラハムという人物についての記録が
記されていますが、創造主なる神がアブラハムに
次のように語られたと記されています。
************************
神は、また彼に言われた。
「わたしはあなたと契約を結ぶ。
あなたは多くの国民の父となるであろう。(略)
わたしはあなた及び、のちの代々の子孫と
契約を立てて、永遠の契約とし
あなたと後の子孫との神となるであろう。」
(旧約聖書 創世記 17章4-7節)
************************
聖書の神は、人と契約を結ばれる神なのです。
そして、神はその契約をどのように遂行されたか、
その記録(事例研究の記録)が
聖書の記述なのです。
契約がどのように遂行されたかは
きちんと【記録】されなければならないのです。
聖書は、契約書と同時にその契約が遂行された
ことの【記録書(歴史書)】なのです。
*************************
どうして【記録】が必要なのか・・・
それは、【監査】があるからです。
【監査】とは何か・・・
神様は、本当に、契約を守られる方なのか・・・
約束を守られる方なのか・・・
救い主として信じてもいい方なのか
信じても大丈夫な神なのか・・・
***********************
確かに、神は、アブラハムに約束された
契約を守られた・・・
契約どおりに、約束どおりに
アブラハムを守られ祝福された・・・と
このあとに続く聖書の記述に
【記録】が記録されています。
神様は確かに約束を守られる方である
ということが全世界に開示されなければ
ならないのです。
【監査人】は、
聖書を読む読者のみなさまです。
ぜひ、【契約書】であり、かつ
【契約が実行された記録】の書
として、聖書をお読みになっていただきたいと
願っています。
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本日もお読みくださって、有難うございます。
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【契約の宗教③「アーメン」=同意する】
本日も、心のエステ・フィットネスに立ち寄って
くださり、有難うございます。
今朝は冷え込みました。こちらでは、晩秋を思わせる風が
吹いて、思わず長そでを出さなくては・・・と思った次第です。
みなさま、どうぞ、季節の変わり目、ご自愛くださいね。
****************************
さて、ずいぶん、不定期になってしまいましたが
【契約の宗教】③
今日は、「アーメン」という言葉について
お伝えいたします。
教会といえば、「アーメン」。
この言葉は多くの方々に、
定着しているかと思います。
しかし、アーメン、ソーメン、冷そうめん・・・と
いわれるのが関の山ではございますが・・・(苦笑)
****************************
【アーメン】これは、通常、お祈りをした者が
また、お祈りを聴いた者が、その終わりに
唱える言葉で
お祈りをした側とすれば、
「今お祈りしたことは 真心からのお祈りです」
「嘘、偽りはありません」
ということであり、
また、そのお祈りを聴いた側は
「わたしも、そう思います。」
という意思表示の意味があります。
さらに、その意味に加えて
【アーメン】ということば、
これは、聖書が【契約の宗教】であること、
そして、その契約においては、
とても重要な言葉になるのです。
【アーメン】その原語に忠実に訳しますと
【同意する】という意味なのです。
そうお伝えすると、とても、みなさまにとっても
身近な言葉になるのではないでしょうか。
例えば、みなさまがスマホやPCで
何か、新しいアプリ、ソフトをダウンロード
されるときには必ず、次のような
画面が出て、【同意する】【同意しない】
を選択されることになります。
英語では
というアイコンになるかと思いますが。
【同意する】というアイコンを押して
ここで、初めて契約成立・・・
新しいソフトのインストールが開始
されるわけです。
***********************
さて、前回の記事で、聖書のいうところの神
創造主なる神は、人の自由意思を尊重して
下さる方であることをお伝えしました。
【アーメン】=【同意する】 というステップは、
そのためにとても大切であり、
必要不可欠なことなのです。
神様は、いろいろな面で、わたくしたちを助けたい
救いたい、と思っておられる。
創造主なる神様がわたくしたちのこころを
救ってくださることに、
「わたしは、心から納得し、同意します。」
そのように、意志を表明するとき、
本当の意味で、神様はそのお力を
発揮することがおできになるのです。
***********************
ところで、みなさまの中で、今まで、何かのご事情で
手術、入院等をなさった方はおられますか?
そのご経験があるかたは、
ご入院時、また、手術前に、
【承諾書・同意書】にサインを
なさったのではないでしょうか。
この【同意書】なしには、
たとえ、どんなに【神の手を持つ外科医】
お医者様でも、患者様の身体に
メスを入れることはできません。
なんでも、おできになったとしても
なにもできなのです。
それと同様に
聖書の神様は、なんでもおできになる方として
聖書に記されています。
しかし、なんでもおできになる方ですが、
人間の【同意】なしには、何もおできに
ならないのです。
それだけ、繰り返しますが
人間の【自由意思】を尊重してくださる
方なのです。
*******************************
「(わたしは)・・・あなたの承諾なしには、何もしたくありません。
それは、あなたのせっかくの善い行いが、強いられたかたち
ではなく、自発的になされるようにと思うからです。」
(新約聖書 フィレモンへの手紙 14節)
*******************************
みなさまが、もし、
神様の愛が、みなさまのこころに豊かに
働くことに【同意】されるなら、
きっと、みなさまも想像できないほど
素晴らしいことを、みなさまのご人生の上に
起こしてくださることでしょう。
*************************
「そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和(シャローム)
が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって
守るでしょう」
(新約聖書 フィリピの信徒への手紙 4章7節)
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【契約の宗教②自由意思の尊重】
本日もこころのエステ・フィットネスに立ち寄って
くださりありがとうございます。
聖書の宗教は、 『契約の宗教』
ということの続きです。
少々、かたくるしい説明が続きますが
大切なことなので、お赦しください。
どうして、聖書のいうところの神様が
「契約」を通して「救い」を与えようとなさるのか・・・
ぜひ、次のことを知っていただきたいと
思います。
① 創造主は人の「自由意思・意志」を尊重してくださる方であること
② 創造主は、「強制はいっさいなさらない方」であること
③ 創造主は、そのために、きちんと
「説明」 「納得」 「同意」 というプロセスを
踏んでくださる方であること
・・・だから、契約が必要なのです。
今回は、①②に関して、一つ聖書(契約内容)の言葉
をご紹介しておきますね。
*******************************
「(わたしは)・・・あなたの承諾なしには、何もしたくありません。
それは、あなたのせっかくの善い行いが、強いられたかたち
ではなく、自発的になされるようにと思うからです。」
(新約聖書 フィレモンへの手紙 14節)
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