ある冬の寒い日、私は銀行に行ったのである。
その日は月末で、社長の業務の一つである振込をしにいったのである。
「社長みずから振込に行くのですか?」とは聞かないでいただきたいのである。私どものような零細企業は、コンビニ経営と同じく、経営者の労働が利益となるのである。
つまり、経営者ががんばって働いた分だけ人件費が抑えられ、その分のみが会社の利益になるという‥‥、家内制手工業といいますか、マニュファクチャーといいますか‥‥、経営者=労働力なのであります;
さらに、レアアースのようなものと申しましょうか‥‥、限りあるわずかな資源、いや、資力‥‥、いや、残高を駆使し、それこそ神業のごとく送金をこなすわけであります:
送金後の残高は「高校生の普通預金ですか?」といいますか、数百円ということも数あるわけですから、この神業のような業務を従業員に任せるわけにはいかないという経営上の判断もそこにはあるわけです‥‥。
で、その日も「ふ〜〜、今月も月末の支払いをなんとか終えた‥‥」と胸をなでおろしながら銀行を出たわけですが、事務所に向かう道中、なにゆえか、うしろに人の気配がするのであります。
この巨体がお邪魔になっていると申しわけないと思い、右に避けるとうしろの人影も右に、左に避けるとやはり左に‥‥、相性がいいといいますか、波長が合うといいますか、ま、こういうことはよくありますよね。
ですから、「お先にどうぞ」と言うつもりで右側に立ち止まったのですが、うしろの人影も立ち止まるわけです。
「むむむ‥‥? これはなにかアヤしい‥‥」
私はまたおもむろに歩き始めたわけですが、ちょうど道路の向こうにあるビルの窓が鏡のようにわれわれを映していたわけです。
見れば、うしろの人影は60過ぎとおぼしき初老の男性で、うつむき加減でヘンな歩き方をしているのです。
「なぜ、うつむいて歩いている‥‥?」
そう、この男性は私が銀行を出たあたりからうしろを着いてきており、しかも、私の手にはバッグが握られているのであります。
零細企業といえども、私もそれなりの会社の経営者。支払いを終えたばかりのバッグの中には、たしか3,000円ほどの大金が入っているのです。
「むむむ‥‥、金が狙われているのか?!」
いまは太ったとはいえ、こう見えて、中・高・大・社会人と剣道に打ち込み、四段の腕前。
予備校時代には、通信教育で極真空手を学んだ経験もあり。
「初老の相手なら、まだまだ勝ち目はあるはず‥‥」
と、電柱の横にスッと入り、電話をかけるふりをしながら男性の様子をうかがったわけであります。
さすがに気まずいであろうから、男性は通り過ぎていくだろうと思いきや、私の目の前で私の目を見ながら、私が電話を切るのを待っているのです。
「な、なんなんだ‥‥?」
電話を切るふりをすると、その男性は私にしゃべりかけてきたのです。
「ええケツしてるな、むしゃぶりつきたいくらいや。なあ、わしに興味ないか?」
「!!!!!!!!」
どうも私は魅惑的なおしりをしているようである。人生の大半を過ぎた初老の男性をまどわしてしまうぐらい、罪なおしりを‥‥。
「スミマセン、興味はまったくありません」
「そうか〜、残念やな〜〜」
そう言って、その男性は去っていかれたのであった。
この一件を自慢話としていろいろな人に話したところ、スリがバレそうになったときに使う手口だと教えてもらった。
「なーんだ、そういうヘンなヤツだったのか」とそのときは私もまったく疑わなかったわけで、なるほど、上には上がいるものなのである。
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