原文:凡此皆是意,不在外面。
訳文:これは全て意念活動を指し、表に表するものではない。
ここの「これ」は前文の『…必於腰腿求』の続きで足腰の問題を指したようだが、太極拳の一般論を示唆している。一般論とは、『始而意動,継而内動,然後形動』(訳:始めは意念が動き、続いて体内が動き、その後に外形が動く)という運動原則のことだ。全ての動きが内→外の運動原則に沿うのは太極拳の最も基本的且つ重要な特徴なのだ。その「内」と「外」、並びに両者の関係について考えてみたい。なお、「外」とは目に見える筋肉・外形のことだが、ここでは、目に見えない「意・気」のことと「外」との位置づけを中心に少し議論することにする。
「意」と「気」は同じものではない。「意・気」と表現したのは「意」の行くところに「気」が伴う、いわゆる『意之所至,気即至焉』(出所:楊澄甫《太極拳術十要》)という状態を前提にしたからだ。ところが、この状態は、個人差はあるものの、そう簡単に実現するものではない。意念は無論、肢体の「鬆」の度合いに大きく関わっているからだ。筋肉・関節を通う「気」の通路が確保されていなければ、「意」の行くところに「気」が伴わないのだ。
「意」は「鬆」の実現に不可欠だが、精神状態によってはその量が「鬆」に反比例することがある。「意」を使わなければならないというマインドが逆に筋肉・関節の強ばりを来たしてしまったり、伴う「気」以上に「意」の量を増やすと、鍋だけが火にかけられている状態と似ている空炊き現象が起きたりして、「鬆」から遠ざかっていくことがあるのだ。
「内」としての「意・気」と「外」としての筋骨・皮肉は主動と受動の関係にある。明代の王宗岳氏が《十三勢行功歌訣》の中で『意気君来骨肉臣』と語り、意と気を君主、骨と肉を臣下と喩えている。臣下が君主の命令に従うように、筋骨・皮肉は「意・気」の指揮下で動く。一般的に、受動よりは主動のほうが動きやすいから臣下としての筋骨が君主としての「意・気」の指令を待たずに勝手に動き出すことがあるが、太極拳の動きではない。そこが他との線引きをするところだ。