【公式】谷口雅春先生の説いた生長の家の本当の教えとは掲示板

【公式】谷口雅春先生の説いた生長の家の本当の教えとは掲示板

谷口雅春先生が説いた生長の家の真理。
しかし生長の家現教団や分離した組織においても、この真理を利用して我を貫こうとする輩が多い事に驚きです。
谷口雅春先生の説いた生長の家の本当の教えとは何なのかに言及したブログになります。

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生長の家
やってしまいましたね


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「生長の家」、参院選で与党を支持せず 安倍政権を批判

朝日新聞デジタル 6月11日(土)0時45分配信

宗教法人「生長の家」は9日、安倍晋三首相の政治姿勢に反対し、参院選で与党とその候補者を支持しないとする方針を発表した。

方針は、安倍政権を「民主政治が機能不全に陥った時代の日本社会を美化するような主張を行っている」などと批判。「日本を再び間違った道へ進ませないために、明確に『反対』の意思を表明する」とした。

生長の家は、憲法改正運動を進めて安倍政権を支持する「日本会議」の事務総局幹部らがかつて属していた。これに対し、今回の方針は「日本会議の主張する政治路線は、生長の家の現在の信念と方法とはまったく異質で、時代錯誤的だ」としている。

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現在、「日本会議」が取り上げられてきており
メディアによっては、「日本会議の産み親は生長の家だ」とまで言われています。
ですから、生長の家的には、日本会議との決別の意味で
「参議院選で与党に入れるな」と信徒に一斉通知を出したわけです。



しかし、この行為が生長の家にとって命取りになるでしょうね。

現在の生長の家は、半分以上が老人であり若い世代がほとんどいません。
その老人世代は、生長の家が政治運動をやっていたころを経験している年代です。

本人たちが政治運動に関わらなくても、地元の自民党議員や
自民党関係者が、会員になってくれたり、講習会に来てくれたりと
生長の家に対して、何かしらプラスになることはしてくれていたのです。



しかし、今回の生長の家の決断により、
自民党関連の方は、生長の家から手を引いていくと思います。
もしかしたら、憎まれ口をたたかれるかもしれません。
この時に困るのは誰でしょうか?

実は、こういった地元の自民党関係者とつながっていた
地元の誌友さんです。



この誌友さんたちは、生長の家のために、良かれと思って
自民党関係者とつながり、講習会への参加や
会員などになってもらっていたのです。

そう言った、誌友さんたちの努力を
今回の生長の家本部が出した決断は
すべて踏みにじったのです。

信徒の日頃の努力を
本部が足を引っ張ってどうするのですか?



信徒の善意の上で胡坐をかいているようなもんですよ。

また老人世代は、生長の家政治運動の関係で、自民党を支持している信徒もいると思います。
そうゆう人は、生長の家にいられなくなりますよね。

つまり、今回の本部の決断は、生長の家信徒の大量離脱を招くということです。

今回の本部の決定について、信徒が異を唱える方法って何だと思いますか?

それは今回の「「生長の家」、参院選で与党を支持せず 安倍政権を批判」の件で
会員をやめるという行為が、生長の家の今回の決断に異を唱える最高の手段なんです。



生長の家は出るのも入るのも自由ですとうたっているのですが
一回やめても、入りたければまた入ればいいのです。
一番大切なことは、意思表示です。

今回の「「生長の家」、参院選で与党を支持せず 安倍政権を批判」について
おかしいと思う人は、意思表示として生長の家の会員をやめることをお勧めします。


ちなみに、本部職員はFacebookなどで

「朝日新聞に取り上げられました」とか喜んでいますが

朝日新聞は左翼新聞。

つまり、左翼に利用価値ありと判断されたということですからね。

J-CASTにも載りましたが、あそこの代表は元AERAの編集長ですから

左寄りです。

そんなメディアに取り上げられて喜んでいる本部職員。

今の世間からみての生長の家の立ち位置が全く理解できていないですよね。

生長の家本流掲示板に、以下の内容が拡散希望で載っていたので

載せますね


<<<<<<<<拡散希望>>>>>>>>>>

現在の生長の家の方針は、政教分離であるということです。

これは、谷口雅宣総裁自身も 過去に 言明したことです。

この方針は 会員に周知徹底され、教団内部で政治活動をした人には、
それなりの制裁が加えられました。

それ自体は、生長の家政治連合時代の教訓もあり、私も支持してきました。

今回、突然、教団が与党を支持しない旨の言明がなされました。

その理由は、宗教とは関係がない、政権運営や原発、安全保障の政策について
政権と意見をことにするからだそうです。

これは、明白に政治に関連した意見であり、
しかも、会員に賛同を呼びかけている以上は、


教団が過去、信徒に強制してきた「政教分離の原則」に反します。

 一般の会員がしたら処罰されるが、総裁がしたら処罰されない。
こういうのをご都合主義と言います。

 しかも、今回の決定は、最高首脳者会議(または拡大首脳者会議)という
少数の人間が密室で決定したことです。

事前の承諾はもちろんありません。

これこそ「民主主義を破壊する」行為です。


 そもそも、投票行動には、自由投票の原則があります。

その内容は、「誰にも干渉されず、自分の 判断で自由に投票することができる 」

というものであり、

これは憲法上の原則です。

宗教法人がどんな政治的な声明を出しても自由ですが、
それを構成員に強制する事は、この原則に違反します。

公職選挙法でも関連した規定があります。

 もし、信徒が教団の会員である、という理由だけで、
自分の信念と異なる政党に投票するなら、この自由投票の
原則に違反することになります。

それを理由に教団が会員を処分することは、当然、この原則に違反します。
 
 宗教法人の会員は、あくまでも宗教上の教義に賛同して
組織に加入したものであり、

その義務は宗教上の意見の賛同に限定されます。

また、宗教法人の構成員は、組織の維持のために経済的な負担をしている以上、
宗教法人に拘束されるようなことはないはずです。

 つまり、政教分離を建前とする宗教法人の構成員は、
教団の指導部の個人的な政治的意見に従う、信仰上、道徳上、
法律上の義務は一切存在しない、ということです。



 これをご覧の皆様に訴えたいのは、

宗教法人 生長の家の会員である、あるいは職員や役員である、
という理由で、投票行動を変更することは、絶対にしないで下さい。

これは、生長の家という組織内部の 民主主義の確立と個人の人権の擁護という
両面から訴えます。

 よろしくお願いします。

生長の家で活動をするということは
基本的に奉仕でお手伝いさせていただくのですから
『信徒の善意』によって成り立っているのが
生長の家の活動だと思います。


それなのにそれなのに・・・・


何故、本部職員は地方教区信徒に対して
上から目線なんでしょうか?


そして、何か自分の意にそぐわない意見が出ると
すぐに真理を持ち出して、自分の都合のよいように真理を利用して
自分の我を貫こうとする。


一体何様でしょうか?
本部職員様は!!


地方教区に行くと、「先生先生」と言われるので
勘違いしているのでしょうか?


生長の家には各教区があって
その教区をまとめているのが本部であり
要はその本部事務処理をしているのが本部職員だと思います。

その中で、講師の資格を取ったのが本部講師というだけの話だと思います。


ですから、どちらが偉くてどちらが下だという関係ではないと思います。

お互いが対等のはずなのですが・・・


それなのにそれなのに・・・・
あぁ、それなのに・・・


本部職員は
勘違いをしているんですね。


本部という肩書がつくせいか
自分のことを、信徒より偉いと勘違いしてしまっているそうです。


ハッキリ書かせていただきます。


本部職員、あなたたちは、信徒のお金を
給料としてもらっているんですよねぇ。
つまり、生長の家に対する愛も、有償の愛ですよね。

信徒は無償の愛で活動しているんですよ。


何故、有償の愛の人々が、無償の愛で活動している人たちに対して
態度がでかいのですか?

いい加減、勘違いするのはやめたほうがいいと思いますよ。



よく

○○すれば願いが叶うよ

というセリフを聞いたことがありませんか?



例えば、講習会の参加促進で家庭訪問に行ったとします。

訪問先の家庭の人が、「資格試験の勉強があるので参加できません」というのです。


こんなシチュエーションでよく聞くセリフが


「講習会に参加すれば資格試験に受かるよ」

です


よく、そんな出まかせを口から言えるものだと開いた口がふさがりません。


生長の家の教えでは、

「その人の天分に叶うかどうか」

です。


つまり、その資格試験に関しても

天分に叶わなければ受からないこともあるのです。

しかし試験に受からなかったとしても、

これからくる天分の事に必ず役に立つのです。


それが生長の家の教えのはずですが・・・・


それなのに、こうゆうことを言っている生長の家の幹部は

その人の天分が何であるかわからないのに

○○したら受かるよ

なんて平気で言えるのです。


自分たちの目標突破のために

このように嘘をふりまく参加促進はいい加減やめてほしいですよね。






よく生長の家では、


「人についていく運動ではいけない」といいます。


しかしそれって可笑しいんですよね。


信仰とは『人についていくもの』でないと意味がないんです。


例えば、講習会を考えてみてください。

「○○さんがいつも声をかけてくれるので○○さんの券で行きます」という

セリフを聞いたことがあります。


この人は○○さんがいなかったら講習会に参加していなかったのです。


つまり、「いつも声をかけてくれる○○さん」に魅力をもち

参加を決意してくれたのです。

○○さんは人ですよね。

ですから人ありきなんです。


もし、「人でなくて真理がすごいから人が集まるんだ」と言う人がいたら、こう答えましょう。


「真理がすごいのでしたら、講習会は参加促進をしなくても人が集まるはずではないですか?」


要は、こうゆうことなんです。


生長の家の幹部の皆さんは、生長の家の真理が凄いから人があるまると言いますが

本当に真理が凄くて人が集まるのでしたら、過去の参加者に

何時講習会がありますという案内を送るだけで人が来るはずなんです。

しかし、それをやらずに参加促進をやらせるかというと

参加促進をしている人の魅力で参加者が増えると言うことを

潜在意識で知っているからこそ、教区幹部の皆さんは

参加促進をしろと信徒の穴をたたくのです、


つまり、参加促進をやらせている時点で、

真理ではなく、『人』ということを認めてしまっているようなものなんです。


今の時代は物があふれています。


ですから、「何を買うのか」ではなく「誰から買うのか」の時代になってきています。


実は真理も一緒です。


今は、様々な本がネットで買えます。

ブログでも情報が入ります。

生長の家の真理以外でも、素晴らしいものが沢山出てきているのです。


その中で、「生長の家は真理が凄いから」と信徒の努力の上に胡坐をかいているようではおしまいです。


真理も「何の真理を聞くか」ではなくて、「誰からの真理を聞くか」の時代になってきているのです。


つまり、そこに「人」がいないと成り立たなくなってきているのです。


そんな状況下で、「人についていくような信仰ではダメだ」と

時代と逆行するようなことを言っているようでは

この先厳しいと思いますよね。




生長の家活動をしていると、よくこのような言葉を聞きませんでしたか?


「第一の事を第一にせよ」


教区活動をやっている中で、私生活や仕事を優先しようとすると

教区幹部に必ずこの言葉を言われて、生長の家活動を優先させられたと思います。


しかし、ここで言う「第一」って何なのでしょうか?


谷口雅春先生の説いた生長の家の真理でいう「第一」とは

「三正行」です。


三正行とは、以下の行の事です。


三正行

・神想観

・聖典拝読、聖経読誦

・愛行


つまり、この三正行を毎日実践する事が

谷口雅春先生の説かれた、本来の真理でいう「第一の事」なんですね。


三正行の中に「愛行」があります。

生長の家の活動は、三正行の中での「愛行」に当てはまると思います。


教区幹部は、


愛行 =(イコール) 生長の家の活動


しかし「愛行」とは、人に愛を与えることが「愛行」ですので

生長の家の活動以外でも、愛を与える行為でしたら

それは愛行になるんですね。

道で困っている人を助けたり、街頭募金に寄付するのも立派な愛行です。


しかし、生長の家の教区幹部の皆さんは

自分たちの都合のよいように人を動かすために

もしくは自分保身の目標突破をするためだけに

愛行とは生長の家の活動しかないような言い方をして

信徒を動かしている教区幹部がいるというのが

宗教法人生長の家教団の現状です。


この教区幹部の行為そのものが愛行とはかけ離れた行為になっておりますよね。

しかし残念ながら、このようなことが日常茶飯事で当り前に行われているのが

現在の生長の家教団の現場の現状になりますね。






人間

吾は『真理』なり、

『真理』より遣わされたる天使なり。

『真理』より照りかがやく『光』なり、

迷を照破する『光』なり。

吾は『道』なり、

吾が言葉を行うものは道にそむかず。

吾は生命なり、

吾に汲む者は病まず死せず。

吾は救いなり、

吾に頼む者はことごとくこれを摂取して実相

の国土に住せしむ。

天使かくの如く説き給えば

天の童子また重ねて問う。

『師よ、人間の本質を明かになし給え。』

天使答えたまわくー

人間は物質に非ず、

肉体に非ず、

脳髄細胞に非ず、

神経細胞に非ず、

血球に非ず、

血清に非ず、

筋肉細胞に非ず。

それらすべてを組み合わせたるものにも非ず。

汝ら、よく人間の実相を悟るべし、

人間は霊なり、

生命なり、

不死なり、

神は人間の光源にして

人間は神より出でたる光なり。

光の無き光源はなく、

光源の無き光はなし。

光と光源とは一体なるが如く

人間と神とは一体なり。

神は霊なるが故に

人間も亦霊なるなり。

神は愛なるが故に

人間も亦愛なるなり。

神は知恵なるが故に

人間も亦知恵なるなり。

霊は物質の性に非ず、

愛は物質の性に非ず、

知恵は物質の性に非ず、

されば、

霊なる愛なる知恵なる人間は、

物質に何ら関わるところなし。

まことの人間は、

霊なるが故に、

愛なるが故に、

知恵なるが故に、

生命なるが故に、

罪を犯すこと能わず、

病にかかること能わず、

死滅すること能わず、

罪も、病も、死も、畢竟汝らの悪夢に過ぎず。

汝ら生命の実相を自覚せよ。

汝らの実相たる『真性の人間』を自覚せよ。

『真性の人間』は神人にして神そのままの姿なり。

滅ぶるものは『真性の人間』に非ず。

罪を犯すものは『真性の人間』に非ず。

病に罹るものは『真性の人間』にあらず。

地上の人間よ、われ汝らに告ぐ、

汝ら自身の本姓を自覚せよ。

汝ら自身は『真性の人間』にして、そのほかの如何なるものにも非ず。

されば人間は真理の眼より見る時は罪を犯す事能わざるものなり、

病に罹る事能わざるものなり、滅ぶること能わざるものなり。

誰か云う『罪人よ、罪人よ』と。

神は罪人を造り給わざるが故にこの世に一人の罪人もあらず。

罪は神の子の本性に反す、病は生命自身の本性に反す、死は生命其自身の本性に反す、

罪と病と死とは、畢竟存在せざるものを夢中に描ける妄想に過ぎず。

実相の世界に於ては神と人とは一体なり、神は光源にして人間は神より出でたる光なり。

罪と病と死とが実在すると云う悪夢を、人間に見せしむる根本妄想は、

古くは、人間は塵にて造られたりと云う神学なり。

近くは、人間は物質にて造られたりと云う近代科学なり。

これらは人間を罪と病と死との妄想に導く最初の夢なり。

この最初の夢を摧破するときは罪と病と死との根本原因は摧破せられてその本来の無に帰するなり。

汝ら『生長の家』を読んで真理を知り病の癒ゆるはこの最初の夢の摧破せらるるが故なり。

最初の夢なければ次の夢はなし。

悉く夢なければ本来人間清浄なるが故に罪を犯さんと欲するも罪を犯すこと能わず、

悉く夢なければ自性無病なるが故に病に罹らんと欲するも病に罹ること能わず、

悉く夢なければ本来永生なるが故に死滅すること能わず。

されば地上の人間よ心を尽して自己の霊なる本体を求めよ、

これを夢と妄想との産物なる物質と肉体とに求むること勿れ。

キリストは『神の国は汝らの内にあり』と云い給えり。

誠に誠にわれ汝らに告げん。『汝らの内』とは汝ら『人間の自性』なり、『真の人間』なり。

『汝らの内』即ち『自性』は神人なるが故に『汝らの内』にのみ神の国はあるなり。

外にこれを追い求むる者は夢を追いて走る者にして永遠に神の国を有る事能わず。

物質に神の国を追い求むる者は夢を追うて走る者にして永遠に神の国を建つる事能わず。

キリストは又云い給えり、『吾が国は此の世の国にあらず』と。

」此の世の国は唯影にすぎざるなり。

常楽の国土は内にのみあり、内に常楽の国土を自覚してのみ外に常楽の国土は其の映しとして顕現せん。

内に無限健康の生命を自覚してのみ外に肉体の無限健康は其の映しとして顕現せん。

人間の五官はただ『映しの世界』を見るに過ぎず。

『映しの世界』を浄めんと欲すれば心の原版を浄めて迷の汚点を除かざるべからず。

われ誠に物質の世界の虚しきを見たり、物質の世界が影に過ぎざることを見たり。

われまた人間が神より放射されたる光なる事を見たり。

肉体はただ心の影なる事実を見たり。

汝ら、物質は移りかわる影にすぎざること恰も走馬灯に走る馬の如し。

されば、影を見て実在となすことなかれ。

人間真性はこれ神人、

永遠不壊不滅の霊体にして物質をもって造り固めたる機械にあらず、

また物質が先ず存してそれに霊が宿りたるものにもあらず、

斯くの如き二元論は悉く誤れり。

物質は却ってこれ霊の影、心の産物なること、

恰も繭が先ず存在して蚕がその中に宿るには非ずして、

蚕が先ず糸を吐きて繭を作り繭の中にみずから蚕が宿るが如し。

人間の真性は先ず霊なる生命にして心の糸を組み合せて肉体の繭を造り

その繭の中にわれと吾が霊を宿らせて、はじめて霊は肉体となるなり。

汝ら明かに知れ、繭は蚕に非ず、然らば肉体は人間に非ずして、

人間の繭に過ぎざるなり。

時来らば蚕が繭を食い破って羽化登仙するが如く、

人間もまた肉体の繭を食い破って霊界に昇天せん。

汝ら決して肉体の死滅をもって人間の死となす勿れ。

人間は生命なるが故に常に死を知らず。想念に従い時に従い必要に従いて

肉体と境遇とに様々の状態を顕せども、

生命そのものは病むに非ず、生命そのものは死するに非ず、

想念を変うることによってよく汝らの健康と境遇とを変うること自在なり。

されど汝ら、ついに生命は肉体の繭を必要とせざる時至らん。

かくの如きとき、生命は肉体の繭を食い破って一層自在の境地に天翔らん。

これをもって人間の死となすなかれ。

人間の本体は生命なるが故に常に死することあらざるなり。

かく天使語り給うとき、

虚空には微妙の天楽の声聞え葩は何処よりともなく雨ふりて、

天の使いの説き給える真理をばさながら称うるものの如くなりき。

『罪は実在なりや?』とまた重ねて天の童子は問う。

天使の答うる声聞えて曰く、

すべて真実の実在は、

神と神より出でたる物のみなり。

神は完全にして、

神の造りたまいしすべての物も完全なり。

然らば問わん。汝は罪を以て完全となすや?

此の時天の童子答えて曰くー

『師よ、罪は完全に非ず』と。

天使また説き給うー

罪は不完全なるが故に実在にあらず、

病は不完全なるが故に実在にあらず、

死は不完全なるが故に実在にあらず、

汝ら神の造り給わざるものを実在となすなかれ。

在らざるものを悪夢に描きて恐怖すること勿れ。

罪と病と死とは

神の所造に非ざるが故に

実在の仮面を被りたれども

非実在なり、虚妄なり。

我れは此の仮面を剥いで

罪と病と死との非実在を明らかにせんが為に来たれるなり。

嘗て釈迦牟尼如来もこの為に来たりたまえり。

嘗てイエスキリストもこの為に来たりたまえり。

若し罪が実在ならば

十方の諸仏もこれを消滅すること能わざるなり。

イエスキリストの十字架もこれを消滅する事能わざるなり。

されど汝ら幸いなるかな、

罪は非実在にして迷の影なるが故に、

十方の諸仏も

衆生を摂取してよく罪を消滅したまえり。

イエスキリストも

ただ言葉にて『汝の罪赦されたり』と云いてよく

罪を消滅したまえり。

われも言葉にて

『生長の家の歌』を書かしめ、

言葉の力にて罪の本質を暴露して、

罪をして本来の無に帰せしむ。

わが言葉を読むものは

実在の実相を知るが故に

一切の罪消滅す。

わが言葉を読むものは

生命の実相を知るが故に

一切の病消滅し、

死を超えて永遠に生きん。


無明

かく天使生長の家にて歌いたまう時、

一人の天の童子あらわれて問いを設けて云う。

「願わくは人々のために、人々のさとりのために、無明の本質を

明らかになしたまえ」と。

天使答えて云うー

無明はあらざるものをありと想像するが故に無明なり。

真相を知らざるを迷と云う。

快苦は本来物質の内に在らざるに、

物質の内に快苦ありとなして、

或いは之を追い求め、

或いは之より逃げまどう、

かかる顛倒妄想を迷と云う。

生命は本来物質のうちにあらざるに

物質の内に生命ありとなす妄想を迷と云う。

本来物質は心の内にあり。

心は物質の主にして、

物質の性質形態はことごとく心の造るところなるにもかかわらず、

心をもって物質に支配さるるものと誤信し

物質の変化に従って

憂苦し懊悩し、

われとわが生命の円満完全なる実相を悟ることを得ざるを迷と云う。

迷は真実の反対なるが故に無明なり。

迷は実在に反するが故に非実在なり。

迷若し実在するものならば

迷より生じたる

憂苦も懊悩もまた実在ならん。

されど、迷は実在の虚なるが故に

憂苦も懊悩もただ覚むべき悪夢にして実在には非ざるなり。

智慧

智慧はこれ本来神のひかり、

実在に伴う円相的光なり、

それは無量光、無辺光にして局限なし、

局限なきが故に

一切のものに満ちて

一切のものを照し給う。

人間は光の子にして常に光の中にあれば

暗きを知らず、

躓きを知らず、

さわりを知らず、

かの天人が天界を遊行するが如く

また海魚が水中を遊泳するが如く

光の世界に光に満たされ法悦に満たされて遊行す。

知恵はこれ悟りの光にして、

無明の暗を照破する真理なり。

真理のみ実在、

無明はただ悟らざる真理にして

これを喩えば悪夢の如し。

汝ら悪夢を観ることなかれ。

悟れば忽ち此の世界は光明楽土となり、

人間は光明生命なる実相を顕現せん。

神は無量光、無辺光の知恵、

かぎりなき善、

かぎりなき生命、

一切のものの実質、

また一切のものの創造主、

されば神は一切所に偏在し給う。

神は偏在する実質且つ創造主なるが故に

善のみ唯一の力、

善のみ唯一の生命、

善のみ唯一の実在、

されば善ならざる力は決して在ることなし、

善ならざる生命も決して在ることなし、

善ならざる実在も亦決して在ることなし。

善ならざる力即ち不幸を来す力は畢竟悪夢に過ぎず。

善ならざる生命即ち病は畢竟悪夢に過ぎず。

すべての不調和不完全は畢竟悪夢に過ぎず。

病気、不幸、不調和、不完全に積極的力を与えたるは吾らの悪夢にして、

吾らが夢中に悪魔に圧えられて苦しめども

覚めて観れば現実に何ら吾らを圧える力はなく

吾と吾が心にて胸を圧えいるが如し。

まことや、悪の力、

吾らの生命を抑える力、

吾らを苦しめる力は

真に客観的に実在する力にはあらず。

吾が心がみずから描きし夢によって

吾と吾が心を苦しむるに過ぎず。

仏の道ではこれを無明と云い

神の道ではこれを罪と云う。

完全円満の生命の實相をさとらざるが故に無明と云う。

完全円満の生命の實相を包みて顕現せしめざるが故に罪けがれと云う。