よく生長の家では、
「人についていく運動ではいけない」といいます。
しかしそれって可笑しいんですよね。
信仰とは『人についていくもの』でないと意味がないんです。
例えば、講習会を考えてみてください。
「○○さんがいつも声をかけてくれるので○○さんの券で行きます」という
セリフを聞いたことがあります。
この人は○○さんがいなかったら講習会に参加していなかったのです。
つまり、「いつも声をかけてくれる○○さん」に魅力をもち
参加を決意してくれたのです。
○○さんは人ですよね。
ですから人ありきなんです。
もし、「人でなくて真理がすごいから人が集まるんだ」と言う人がいたら、こう答えましょう。
「真理がすごいのでしたら、講習会は参加促進をしなくても人が集まるはずではないですか?」
要は、こうゆうことなんです。
生長の家の幹部の皆さんは、生長の家の真理が凄いから人があるまると言いますが
本当に真理が凄くて人が集まるのでしたら、過去の参加者に
何時講習会がありますという案内を送るだけで人が来るはずなんです。
しかし、それをやらずに参加促進をやらせるかというと
参加促進をしている人の魅力で参加者が増えると言うことを
潜在意識で知っているからこそ、教区幹部の皆さんは
参加促進をしろと信徒の穴をたたくのです、
つまり、参加促進をやらせている時点で、
真理ではなく、『人』ということを認めてしまっているようなものなんです。
今の時代は物があふれています。
ですから、「何を買うのか」ではなく「誰から買うのか」の時代になってきています。
実は真理も一緒です。
今は、様々な本がネットで買えます。
ブログでも情報が入ります。
生長の家の真理以外でも、素晴らしいものが沢山出てきているのです。
その中で、「生長の家は真理が凄いから」と信徒の努力の上に胡坐をかいているようではおしまいです。
真理も「何の真理を聞くか」ではなくて、「誰からの真理を聞くか」の時代になってきているのです。
つまり、そこに「人」がいないと成り立たなくなってきているのです。
そんな状況下で、「人についていくような信仰ではダメだ」と
時代と逆行するようなことを言っているようでは
この先厳しいと思いますよね。