明らかになってきた「国家観」の乖離と今後のこと(後編) | Tempo rubato

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アニメーター・演出家 平松禎史のブログ

選挙前後に考えたこと。今回で最後になります。

前回は「まっとうな国家観」について書きました。

「まっとうな国家観」とは
国民と、海を含む国土の豊かさを維持・継承する。
それは天皇を頂く二千年を超える歴史伝統を維持・継承することと一致する。

を基本に踏まえて方法を選択できること、と定義した上で書いていきます。

一行目が実務面を指し、二行目が思想面を指すと考えて下さい。
一行目は字のままですが、優れた設計図でもその通りにやって良いとは限りませんよね。
二行目の天皇や日本の国柄は、家族のため、先祖代々の感覚、故郷・土地を大事にしたい、というつながりの気持ちを代表する感性です。

上記二行の完璧な一致は望みませんし程度は問いません。
どちらか一方でもいけない。
双方のバランスをとる基本認識があるかどうかです。


政治家は国民から生まれますから、国民の意識が政治に反映されます。
長期デフレに対処できていない政府に対して、国家観がどうこうよりも生活を何とかしてくれという切実な気分が共産党の躍進につながった。

「まっとうな国家観」が必要だというのは、基本的な国家観と政治手法が分離してしまっていいのだろうか?という論点です。
外交国防と同様、経済政策にも国柄に合った思想が必要だ、と。

つまり、「まっとうな国家観」の定義の一行目と二行目の一致が認識できるかどうかです。

「右・左・保守」のレッテル貼り
「右・左・保守」といった分け方は実態を少しも反映していません。
日本に「右翼・左翼」は僅かしかいないでしょうし、「保守」は定義が固まらないのでほとんど意味を成しません。
しかも、どれも欧州から輸入された思想です。
日本人の感性を外国式の枠にはめ込むことは不可能で、弊害しかないと思います。

「右・左・保守」を使用したレッテル貼りは日本の国柄、日本的な感性に馴染まない。

「自民党は愛国保守政党」
「安倍さんは愛国保守政治家」
または
「安倍は媚米新自由主義者」
「安倍は偽装愛国者の売国奴」
願望で現実を歪めたり、単純化するのは慎みたい。

「まっとうな国家観」
「まっとうな国家観」に基づく政治がどんなものなのか。
上記の定義で言えば、政策論以前の思想の問題だと思いますが、生活に密着したところから多くの国民が少しづつ納得できる説明をしていく必要があるでしょう。

一気に認識を広めたり変えようとする改革・革命はしない方が良いし、リーマンショックや東日本大震災のような悲劇…ショック・ドクトリンを期待したくはありません。

何が問題なのか、どうすれば良いか、少しづつ浸透していけるような気の長~~~~い
気の長~~~~~~~~~~~い取組みが必要なんだと思いますね。
10年、50年、100年単位の取組み。
くどいようですが「まっとうな国家観」がないとブレてしまいます。

ボクの仕事で直接的にやるのは無理ですが、何も作品で政治思想を語る必要はないんです。
箸の上げ下ろしを丁寧に描こう、それだけでも良い。

金!金!金!
早期に結果を出す必要があること、優先すべきは、やはり経済でしょう。
思想、文化的な取組みとは分けて、こちらはなるべく早く結果を出さないと死んでしまいます。

経済と言われると「金の話かよ」と嫌悪感を持たれるかもしれませんが、デフレが15年も続いた日本では「まっとうな国家観」が試される重要課題になっています。

西部邁氏は最近の状況を見て「金!金!金!学者も評論家も政治家も金の話ばっかりだ」とお嘆きです。
いやいや先生。経済が駄目になると文化も萎んじゃうんです、と言いたいのですが、西部氏の言いたいこともわかります。

なんのために金の話をしてるのか自覚できないんじゃないか?ということですね。
自分の問題意識に寄せれば、「まっとうな国家観」のない小手先の話ばかりだ、と。

「この道しかない」
は民主党の「マニフェスト選挙」と変わらない

自民党は「景気回復、この道しかない」というスローガンを掲げました。

しかし、どの道を選ぶかが問題です。
選ぶ前から「この道」と決めてかかっている時点で「まっとうな国家観」が疑われます。

デフレ際にある日本経済が、再デフレ化を防ぎ経済成長へ持っていくには、今は、財政均衡・緊縮財政への固執を止めて積極財政へ政策転換することが必要とされます。

これも「まっとうな国家観」があればこそ、できることだと考えます。
方法論に固執せず現実を見て政策転換を行うにも、この認識が必要です。

民主党の「マニフェスト選挙」は政権公約として設定され、国会議論を無視するものでした。
現実は刻々変化するのに予め選択肢を絞って、決めてしまうのは危険すぎますし、まっとうな民主主義の否定です。


雨が振りそうなら傘を持って出る。もし降らなかったら無駄ですか?
川が氾濫したら堤防を強化する。大雨が来なければ無駄ですか?
都市と町をつなぐ道路網を整備する。鹿しか走らない道は無駄ですか?
防災袋を常備して中身を定期的に点検・補充する。震災がなければ無駄ですか?
無駄に見えても長い目で見れば常にコストを支払う必要がある。
予測不可能な危機が山ほどあるから、あちこちであーでもないこーでもないと民衆が議論するのです。
政治家はそれを拾えば良い。
政治家が選択肢をあらかじめ絞ってはいけないと思う。
国民と政治家が選択する時、「まっとうな国家観」が試されるのでしょう。

日本には「この道しかない」と選択を絞って決めてしまうような姿勢は馴染まないと思う。
景気回復における「この道」とはどんな道なのか。
「しかない」とは、他の道は見ないことなのか。
状況を見て見改めるおつもりがあるのか、今後に注目したいと思います。


日本では長く見ても季節ごとに毎年違う大きな変化に見舞われます。
数十年~数百人に一度、天変地異がやってきます。
短い選択の積み重ねが長い目で見て有効かも試され続けます。
民主主義への過信とともに、数年に一度の選挙という制度に寄りかかってしまうことも不自然だと思えます。
(やめてしまえと言っているわけではありませんよ。)

国民の強靭化が高まって
与野党が「まっとうな国家観」を基本にした議論を戦わせてくれるのなら、投票率が低くても一向にかまわないとすら思います。

(了)