はじめに

連休前半戦の最後の日。2日頑張ればまた3連休だ!と自分に言い聞かせてなんとかメンタルを保っています。笑

 

さて、今回の投稿は何についてかというと、translanguagingとその心構えに関してです。

このブログで何度も警鐘を鳴らしていますが、「translanguagingは単に英語の授業中に日本語を使ってもよい」といったことではありません。translanguagingをより実りあるものにするには、ある心構えが必要です。今回はそのことについて、改めて書いていきたいと思います。

 

  反対のものかと思ったけれど・・・

この投稿のタイトルにある「反対のものかと思ったけれど・・・」というのは、僕が教える中学1年生の道徳の授業の振り返りからです。

 

どんな内容の道徳の授業だったのかと言うと、権利と義務に関してでした。小学校で何かしらそのようなことを学んでくる生徒も多いからか、非常にレベルの高い話し合い、振り返りのコメントが見られました。

 

中でも僕の目をひいいたのは先ほど引用した言葉でした。何人かの生徒が似たようなことを書いていたのですが、ある生徒は「権利と義務は反対のものかと思ったけれど、そうではなく何かしら関連があるのだと思った」という趣旨のことを書いておりました。

どういうことかというと、ある人が権利だと思うことが他の人にとっては義務であったりする、ということを道徳の授業の話し合いから学んだというのです。

 

話はそれますが、たとえば僕がとても興味深く思ったのは、「権利と義務が衝突する身近な例」について考え、ペアでシェアさせた活動で、ある生徒がいった「ご飯を食べる義務と遊ぶ権利」という言葉でした。

 

ご飯を食べることが義務だと???

 

そう思われる方もいるでしょうが、私立中に通う坊ちゃん/お嬢ちゃんにとってはご飯は当たり前のように出てくるものであり、それを食べることが義務に感じることさえあるというリアルな感想なのです。(実際、僕自身も子どもの頃は少食で、1日に3度もやってくる食事の義務感が嫌でした笑)

いずれにせよ、これがその生徒の感じた義務と権利であり、そうやって考えると義務と権利(ここでいう、食べる義務と権利)は反対のものではないと思えると思います。

 

話がずいぶん脱線してしまいましたが、反対のものだと思っていたものに繋がりを見出そうとする姿勢こそ、translanguagingに必要なマインドセットなのではないかと思います。

 

  translanguagingにおける「反対のもの」

では、translanguagingを授業に取り入れる際に考えられる「反対のもの(相対する概念、「考え方)」には何があるでしょうか。

 

日本語ベースの授業 vs.オールイングリッシュの授業

まずひとつ浮かぶのは、「日本語ベースの授業」と「オールイングリッシュの授業」といった異なるスタイルの指導法でしょう。

 

これは本当に気をつけなければいけないことです。なぜかというと、英語教育界隈ではこのスタイルの違いを二項対立のように捉える見方がいまだに蔓延っているからです。

ある人は「日本語(母語)を活用したようがいい→訳読だ!」といった日本語ベースの英語授業を推奨し、またある人は「インプットこそ語学の最重要事項だ→英語の授業は全て英語だ!」とオールイングリッシュという指導法を強く推しています。

 

教壇に立ったことがある人ならオールイングリッシュの非現実性をよく理解していると思いますが、だからといって訳読に固執するのも第二言語習得論(SLA)の知見からいえば間違えています。少し考えればわかるように、本来バランスこそ重要なのですが、物事を二項対立的に捉えてしまうとどちらかに固執することになってしまいます

 

そのような考え方では、いくら「今はtranslanguagingの時代なのだから、日本語を使わせてもいいんだ」と日本語を英語の授業に取り入れようと、いい成果が出せるはずはありません。逆にオールイングリッシュにしてインプットを増やせたとしても、オールイングリッシュによって排除される存在を見逃してしまうことになるでしょう。まずは、「反対のもの」に繋がりを見出す姿勢が大切なのです。

 

正しい英語 vs. 間違った英語

もうひとつ考えられるのは、「標準」という垣根によって生じる「正/誤」という概念がもたらす、「善/悪」という価値判断です。

 

これもものすごく重大なものです。なぜなら、「誤→悪」という価値観の蔓延る環境では、英語を使うことに抵抗を覚え、積極的に練習する機会を奪い、英語運用能力の発達を阻害してしまいます。また、それ以上に僕が危機感を覚えるのは、本来語学に期待できるidentity の表現・構築・創出を、このような環境では十分にできないという問題点です。もっといえば英語の使用者としてのidentityを損なわれるということになります(自傷的第二言語自己愛者になってしまう?(僕の仮説))。

 

だからこそ、指導者はもちろん、学習者の間でも、「正しい英語 / 間違った英語」という考え方を抑えていかないといけません。そういった「反対のもの」に繋がりを見出すマインドセットも持ってして英語学習・教育に臨むべきですし、それを可能にするtranslanguagingを模索していくべきです。

 

  おわりに

今回の投稿では、僕の生徒が書いた道徳の授業でのコメントから、「反対のもの」につながりを見出す姿勢の大切さについて書きました。

 

僕自身としては、中学1年生からこのような考え方のできる生徒は、translanguagingを駆使して現代にふさわしい英語学習を進めていけるのではないかと楽しみにしています(授業担当者の力量は大きいですが)。

 

そして、最後に付しておきたいのは、このようなマインドセットのない学習者にはtranslanguagingが向いていないのか?ということです。

僕自身は、向いていないということはないと思っています。むしろ、translanguagingに授業で取り組むことで、このようなマインドセットを身につけていけると思っています。つまり、「英語って正しい/間違っているって明確な線引きは難しいんだな→他の物事でも、反対と思っていたものも案外そうでもないのかもしれないな」といった感じで、考え方を変容させていけると思います。

 

そういったところに、僕は現代における英語学習の本当の意義があるのではないかと思っています。

次のレベルに英語学習・教育を引き上げるべく、我々教育者はリードしていけるよう学び続けなければいけないですね(自戒の念も込めて)。