はじめに

前回の投稿では、translingualとはなんなのか、特にmultilingualとの違いについて述べました。multilingualのように各言語を別個の言語としてわけて考えてそれぞれの能力に着目するのではなく、translingualでは言語をレパートリーとして捉え、そのレパートリーのなかで様々な言語を駆使するのを認めていく(そもそもそれが自然な姿として見なす)といったことを確認しました。

 

今回の投稿では、接頭語trans-について考察し、その意義について述べていきたいと思います。

 

  接頭語trans-

上記のように、translingualの考え方では、各言語の境目を特別に意識することをしません。言い換えると、「言葉の垣根を超え」て言葉を使用していくことに着目するのです。これがmultilingualとの最大の違いであり、trans-という接頭語の意味なのです。

 

ところでtrans-という接頭語には、以下のような意味があります。

  • 越える、超越する
  • 横切る
  • 向こう側へ、別の状態へ
また、このtrans-という接頭語を持つ言葉には、以下のようなものがあります。
  • transcend(超える、超越する = 超えて、登る (scend))
  • transport (輸送する = 港 (port)を横切って運ぶ)
  • transform (変形する = 形 (form)を別の状態にする)
  • trance (トランス状態 = 意識が「向こう側へ」いった状態、超越した状態)

また、最近よく聞くのは、transgender (出生時点での性別と自身の性同一性が異なっていること)だと思います。これはまさに時代を反映していて、今までは別の呼び名で呼ばれていたはずですが、性別を複数または半分持っているというよりも、むしろ性別を「超える、超越する」ことから、このように呼ばれるようになったのだと推測できます。

 

  trans-の現代的な意義

transgenderに代表されるように、現代においてこのtransという言葉はとても重要な意味を持っているように考えています。

 

上述したように、transgenderという言葉から、「生まれ持った性別でさえもその垣根を越えることができるし、性別という概念を超越できる」、そのような意味合いが感じ取れます。

 

また、話のスケールは少し大きくなりますが、私は現代という時代を「あらゆる垣根が以前ほど意識されなくなっている時代」と考えています。以下にその内容をまとめますので、皆さんも一緒に考えてみてください。

 

国境

新型コロナウィルスの影響により、再び国境を意識することは増えてしまったように思いますが、それ以前 (2010年代後半)の世界を思い出すと、現代はものすごく国家間の移動がしやすくなった時代と言えると思います。

 

おそらく交通網や手段の発達が大きい理由だと思いますが、島国日本でも、学生でさえ海外旅行に行ったり、日本国内にたくさんの外国人が旅行に来たりしていました。私が学生時代アルバイトをしていた渋谷のホテルでは、利用客の7割以上が外国人というほど、特に東京近辺では外国人を見かけるのが当たり前の光景になっていました。

 

また、物理的な移動のみならず、メールやSNSの利用によって、国境を意識せずに世界中の人々とやりとりができるようになりました。こういった背景から、「国際的 (=inter-national)」というよりも、「グローバル (=global、全体を包み込むようなイメージ)」という言葉をよく耳にするようになりました。

 

参加型アート

私はアートに精通しているわけではないのですが、私が考えるに以前よりも参加型のアートが増えてきたように思います。

 

これがtransとどう関係しているのか簡単に説明します。通常アートとは「鑑賞者(見る側)」と「作品(見られる側)」という関係性で成り立っています。皆さんが「アート」と聞いて思い浮かべる光景は、「作品ー(それを眺める)鑑賞者」といった構図ではないでしょうか。

しかし、参加型アートでは、「鑑賞者」は単なる「見る側」ではなくなり、作品の一部に溶け込んでいきます。言い換えるとこれは、「見る側」「見られる側」という「垣根」を越えた形といえるわけです。私はこれを、「transを反映したアートの形」なのではないかと考えています。

 

視聴者参加型のテレビ番組

これも参加型アートに似ていますが、テレビ番組でさえも参加型がしばしば見られます。たとえばdデータ。これを使って投票を行い、国民が選んだ歌をアーティストが歌うといった形のテレビ番組を見た時、私はとても驚きました。

 

テレビこそ、「見る人」と「見られるコンテンツ」といった構図がぴったりだったはずですが、この垣根さえも越えていっているのが最近の傾向だと思います。

YoutubeやInstagramでのライブ配信に見るように、視聴者からのコメントを配信者が読んで答えていくというのも、最近よく見る参加型のメディアだといえます。

 

芸能人と一般人

SNSの影響が大きいと思いますが、最近では芸能人と一般人の境目も曖昧になってきていると思います。

以前だとテレビに出ている人が芸能人、というふうに考えられていたかと思いますが、今ではSNSで活躍されている人々も芸能人のように振る舞っていますし、インフルエンサーとして考えられています。いわゆるYoutuberと言われる人々はまさにその典型です。

これもある意味ではtransの一形態なのだと私は考えています。人々が境界線を意識しなくなった結果生まれたのが、Youtuberやインフルエンサーといった存在なのだと思います。

 

  translingualに期待できること

このように、日常に様々な形でtransが染み込んでいる現代においては、言語 (language) においてもtransが入ってきて然るべきなのではないかと私は思うのです。これが前回の投稿で「translingualは自然なことばの使用」と書いた理由です。

 

また、translingual なidentity (translingual identityと呼んでいます)を育むべきだと私が考えている理由は、それが「誰も傷つかない英語学習・教育」につながっていくと考えているからです

 

どういうことか。

おさらいですが、translingual identityを持つ人は、各言語をレパートリーと見なし、それらを駆使して新しい文法や意味を創出する行為に主眼を置きます。また、各言語の能力の高さを重要視しません。

このような考え方は、「標準」という垣根をつくるものにしばられて、ことばの自由を奪うことから解放してくれると私は思うのです。たとえば「標準文法」。これをあまりに強調する人は、言語の使用を「正解 / 不正解」と二分して考えてしまいがちです。一方translingual identityを持つ人は、そもそもそのような垣根を重視しないので、「正解 / 不正解」にしばられることがなくなります

そうなると、「間違っているかもしれないから」と怖気付いて英語を話したり書いたりすることがなくなります。これはいうまでもなく、言語学習においてものすごく重要です。また、残念ながらSNSでよく見かける「英語ポリス」と呼ばれる「正しさを強要してくる人」によって傷ついてしまう人も、translingual identityを育んでいけば、正しさに縛られて傷つく必要がないと理解できると思います(もちろん、translingualの考え方が広まれば、傷つける人自体も減っていくでしょう)。

 

このように、translingual identityの養成は、英語学習を促進させるだけでなく、「誰も傷つかない英語学習・教育」の実現に寄与してくれるはずです。

 

  おわりに

今回の投稿は少し英語学習・教育から離れたところで議論をしてみました。ですが、現代において受け入れられているtransの考え方は、言語学習においても浸透していく可能性がありますし、そうであって欲しいと私は願い、地道に投稿を続けています。

 

また、translingual identityを持つ人々が増えることで、あらゆる垣根ー特に、それによって誰かを苦しめるものーが世の中からなくなっていくと私は信じています(具体的なことはいずれ書くようにします)。そうだとすると、たとえAIや自動翻訳の発達で英語学習が不要になったとしても、語学に励む意味があるはずです。壮大な話ですが、私は語学にはそれだけの力があるのだと信じています。